2021年5月9日日曜日

5月書評の2

外出せずに何をしていたかというと、野球も見るが、今年はBリーグを楽しんでいた。

コロナで多くの試合が延期または消滅となった。あす月曜日がようやくリーグ戦最後の試合。しかも試合に臨む両チームの片方、渋谷はこの試合で最終順位が決定するという混戦。

プレーオフは東地区順位順に宇都宮、千葉、川崎。西地区は琉球、大阪、三河。ワイルドカードは渋谷が勝てば上位、負ければ下位。もう一つのワイルドカードは富山で結果待ち。

東地区3位ながら、いま最強は川崎だと思う。ディフェンスが異常に強いのに加え、ビッグラインナップといって、2m超の3人が同時にコートに入ると得点力が急激にアップする。日本代表キャプテン、篠山竜青のがんばりやキャプテンシーもいいと思う。得点力のある大阪と初戦、勝てば全体1位の宇都宮。楽しみだ。

私の推しは富山初のプロスポーツチーム、富山グラウジーズ。外国人が2人しかいないが、その2人、オールラウンダーのマブンガと重量級センターであるスミスは両方ともリーグ月間MVPを取るなど実力派。チームはリーグで最も得点が多い。失点もかなり多いけど笑。日本人もよく動き、チームとしてまとまっている小さな強豪。

B2は一歩先にプレーオフに突入した。ところが、地元、西地区優勝の西宮が最初の対戦で敗退してしまった。来年はB1に昇格して、地元の行きやすい体育館で千葉の富樫や、富山の戦いをみたかったのに。がっくり。

まあ切り替えてB1のプレーオフを楽しもうと思う。高校のバスケ部同級生たちとわやわや話しながら観るのが面白い。

そして、星出宇宙飛行士がISSへ向かう打ち上げ、到着に乗り込み、野口飛行士の帰還のYouTube中継を楽しんだ。

家にいても、それなりに感じることの多いGWだったかな。


◼️ 油井亀美也「星宙の飛行士」

ISSから撮影した宇宙、地球、世界。タイトルはあの名曲から?

宇宙飛行士の著者はISS滞在時、ここでしかできないことを、共有できることを、と宇宙から見た宇宙、そして地球外縁、世界の超高空からの撮影にトライしたとのこと。

画像の手前には日本の補給機「こうのとり」ほかISSの一部などが非現実的に巨大に迫り、地球の外縁がさまざまな色に染まって美しく、星空はよくできた舞台芸術に見えないこともない。それら全てで、常人には見ることの出来ない「現実の異空間」というものを形作っている。

先日、星出宇宙飛行士を乗せたISSへ向かうロケットの発射、ISS到着と乗り込み、そして野口宇宙飛行士の地球帰還をYouTubeの生中継で見て、図書館で目についた本書を借りてきた。

著者は防衛大学で戦闘機のパイロットとなるべく高度な訓練を受け、JAXAの宇宙飛行士募集に応募、夢を叶えた。39歳にして飛行士と認定されたため当時は中年の星、などと呼ばれたようだ。サラッと書いてあるけども、相当なスーパーエリート。野口さんの著書を読んだ時もそう思った。そりゃそうだよね。

JAXAの一連の番組はロケット発射から軌道制止?まで迫力があり、帰還はパラシュートで降下する宇宙船をカメラフォロー、着水、船への引き揚げなどを生中継していて、時代が進んだことを感じさせた。

番組の中で、宇宙飛行士は訓練の期間が長いから、打ち上げを楽しみにしている、という解説があった。この本にも訓練のことは触れられている。ロシア語没入訓練、「宇宙兄弟」でもあった20mの水中で過ごす訓練にサバイバル。

オーロラと星空の写真、また流星群が地球に向かって落ちて行くのを上から見る話、高空から見た都市や富士山、興味深い写真がいっぱいだ。油井飛行士のYouTube動画では、オーロラの海を泳いで進んでいるかのような場面もあって、ホント1回でいいから生を見てみたいと思わずにはいられない。

今回の一連の、自宅での体験は、気がつけば宇宙時代がどんどん進んでいることを、気づかせた。少し未来の設定であるはずの「宇宙兄弟」とややもすればもうオーバーラップしているのではないかと。


本書のタイトルは、リチャード・クレイダーマンの名曲のもじりかなと思う。そう、まさに読みながら「星空のピアニスト」のメロディーが頭の中でヴァリアントに鳴ってたのでした。



◼️ 莫言「赤い高粱」

生のエネルギーと、そして・・色!

ノーベル文学賞作家である莫言が1980年代に書いた作品。荒々しさ、凄惨さの中にうごめく生々しい人のエネルギーを感じ、広大な高粱畑を舞台にきらめく色彩表現に唸った。

在宅勤務の慰めにと、明かり取りの窓に映画のパンフレットを並べている。「初恋のきた道」「あの子を探して」「活きる」とチャン・イーモウ監督特集にした時、そういえば「紅いコーリャン」を観てなかったな、と思い返していた。そして週末に図書館に行き、他の本を探していたら原作が目の前に見つかって即借りて来た。本との出会いは不思議なもの。

1939年、山東省。盗賊の首領である余占鰲は高粱畑に潜み、村の精鋭を組織し、日本軍にゲリラ攻撃を仕掛ける。余は兵の食糧としての餅を作って持ってくるよう妻・戴鳳蓮に伝えるため、言付けた息子の豆官を家に走らせる。

戴鳳蓮は金持ちの造り酒屋にいやいや嫁がされる道中、強盗から救ってくれた籠人足の余と情を通わせたのだった。そして、日本軍が姿を現した時、餅を抱えた鳳蓮らが土手の上を走って来たー。

背の高いモロコシ系の高粱が無数に植わっている広大な畑、それを中心とする広大な大地。殺人、瀕死、死骸、刑罰、泥、血など、決してきれいではないものを荒々しく混ぜ、余の破壊的な行動、鳳蓮のしたたかさ、さらに両者の純情、匂い立つ男女の若さが覗く。

物語は1939年と過去を行きつ戻りつする。2人の出逢い、再会、造り酒屋を手に入れた経緯、日本軍の横暴、そして凄惨なゲリラ戦。決してきれいではないが、雑多な中に人の生きる力を感じた。

真っ赤な高粱の実、葉茎の緑だけでも鮮やかなのに、色の表現がおちこちに散らされ、息を呑む。

鳳蓮は県長に厳しく詮議され、倒れる(芝居をうつ)場面。語り手は全編にわたり余と鳳蓮の孫である。

「髪をまとめていた銀かんざしが落ちて、まっ黒な雲のかたまりが、滝のように流れくだった。祖母は顔を金色に輝かせ、おいおいと声をあげて泣き、けたけたと笑った。唇のまんなかから、真っ赤な血が流れ出た」

動きの流れるような躍動感と狂気、銀と漆黒と輝く肌の色と、濃い赤。

また他にも

「血のように赤い、悲しげな月のまわりを、いくつかの緑色の雲が守っている」

「松明の火がついた高粱の葉がジージーと音をたてておどり、広い高粱畑のなかを火の蛇が飛びまわる」

といった想像力を刺激するシーンが、さりげなく、時に刺すように現れる。

この作品はチャン・イーモウ監督の映画作品がベルリン映画祭の最高賞である金熊賞を獲得、評判が高まった。

チャン・イーモウといえばその色彩感が非常に印象的な巨匠。そのルーツは「紅いコーリャン」の原作にあったのかと、意外な感慨深さを覚えた。

うーん、というところもあるけれど、物語が持つ力、を考えさせる作品でした。

5月書評の1

月と火星の接近、きれいにかかった虹。

ゴールデンウィーク、ことしは4/29木、4/30金、5/1、2が土日、憲法記念日、みどりの日、こどもの日。何をしていたかというと、晴れれば生活用品を買い足したり、図書館に、ほんの少しだけ外出、雨ならそれすらしないというステイホーム体制。

来年奈良に行ってたような気がするが、遠出はないな。

◼️白洲正子「能の物語」

静御前に六条御息所の怨霊に巴御前・・

能は出演者が豪華。聞いたことある話、を少し深めに堪能する。

日本画家、上村松園が多く謡曲から材を得ていることから能に興味が出た。この本は、能の脚本である謡曲、うたいを物語にしたもの。


間を大切にする、お能を目で見るように書く、幽玄な雰囲気を壊さぬよう注意することに重点をおく、言葉の意味より、文章のリズムのほうがたいせつ。

「はじめに」からどこか気迫がほとばしる。観察者ではなくて身内感。著者は4歳の頃から能を習い、女人禁制の能楽堂に女性として初めて立ったと方とのこと。すわ、本格的。なるほど。

収録されているのは21のごく短い物語。

「井筒」「鵺」「頼政」「実盛」「二人静」「葵上」「藤戸」「熊野」「俊寛」「巴」「敦盛」「清経」「忠度」「大原御幸」「舟弁慶」「安宅」「竹生島」「阿漕」「桜川」「隅田川」「道成寺」

物語間の流れを重視してか、源平合戦の関連の話が多い。序盤、「井筒」は伊勢物語、「葵上」はもちろん源氏物語、後半の「竹生島」以降はまた違うが他は、少なくとも源平の武者が出てくる。

「藤戸」は源平合戦で、藤戸の渡しで先陣となった佐々木三郎盛綱が浅瀬を教えた漁師を口封じのため殺し、その母に責められる話。
「俊寛」は平家討伐の密儀をこらした鹿が谷の陰謀が露見して鬼界ヶ島に流された僧にまつわる悲劇で、芥川龍之介らも小説化している。
「大原御幸」は子の安徳天皇とともに関門海峡早鞆の渦潮に身を投げたが源氏方により引き揚げられ、恥を忍びながら京都の寂光院に暮らす建礼門院を後白河法皇が訪ねる微妙な雰囲気の話。

「舟弁慶」、そして弁慶が義経を打擲する「安宅」、木曾義仲の愛人にして勇壮な女武者である「巴」と聞いたことはあったがなかなかきちんと理解していなかった素材ともいえる物語の流れを見るのは楽しい。

おおむねは成仏できない史上の人物が出てきて、舞台らしい仕掛けが伺える進行があって思いを晒し、やがて手厚く弔われる。史上の人物ではないが、葵上に取り憑いた六条御息所も取り払われ、御息所は心の安らぎを得て成仏する。上村松園が「焔」という作品で描いているこの怨霊の姿を思い出す。

「大原御幸」や「桜川」は人のみの話、また「道成寺」は娘が変容した大蛇と僧たちの戦いだ。心に切々と訴えかけるもの、どだーんと亡者たちや妖怪と争うもの、歴史の残滓など長く人口に膾炙してきた様々な伝説、古典の題材を読んでいると確かに何らかのリズムがあるような気がしてくる。

最も心に残ったのは「二人静」。花の名にも、中森明菜の曲名にもありますね。

源義経の愛人の白拍子、静御前の霊が吉野の若菜摘みの女に乗り移り、神社の神官に弔って欲しいと頼む。神官は舞を舞って見せてくれたら弔うと請け合う。静の霊は神社に所蔵されている自分の装束を正確に指定し、身につけて舞殿の上で舞う。

舞うのは静が憑依した娘だが、どこからかまったく同じ姿の女性が忽然と現れて、かたわらに寄り添って舞いはじめた。二人は義経と過ごした過去の憶い出を声をそろえて語り出した。


奈良・吉野まで一緒に落ち延びた静御前は吉野山の奥へ奥へと逃げるが、足手まといとなるため、そこで義経と別れて京に戻ることになる。途上で源頼朝に捕らえられ、鶴岡八幡宮の衆人の前で舞えと命じられる。

屈辱の舞、しかし静は

賤(しず)や賤 賤の苧環(をだまき) くり返し
むかしを今になすよしもがな

たとえ賤しい白拍子の身でも、義経の全盛時代を復活させてみせたい、と歌った。

この歌は頼朝を激怒させたが、北条政子が「そりゃ私だってああ歌うわよ」ととりなして命を助けたんだとか。

二人の静はやがて一体となり、亡霊は花吹雪とともに去る。

二人の人物の玄妙なオーバーラップは、「井筒」にも見られる。想像では美しく儚い物語。

白洲正子氏は書いておられる。

「この本を読んだだけで、お能を知ったと思っていただきたくはない。(中略)多少でも興味をおぼえた読者の何人かが、本物のお能に接したいと思ってくださるならば、著者にとって、それにまさるよろこびはないのです。」

私は能のことを知らない。でもこの「二人静」はどう演出されているのか。やっぱり観たくなります!

「安達原」「鉄輪」「紅葉狩」といった鬼ものも迫力がありそうで興味があるし、約250あるという演目が合わないこともあるかも知れないが、探して、観に行きたい。


◼️坂口安吾「桜の森の満開の下」

名作を初読み。冷たい風。静寂が張り詰める。

ストーリー進行は菊池寛「恩讐の彼方に」とか芥川龍之介「偸盗」を思い出したかな。王朝ものとは思わなかった。しかし話の焦点は独特なものがある。

鈴鹿の山に無慈悲な山賊が住み着いた。通りかかる旅人から金品を奪い、男からは着物を剥いで、その女房を気に入れば奪って自分の女房にした。山賊には怖いものがあった。満開の桜の森の下には、ゴウゴウ風が鳴るようでいて物音はなく、自分の姿と足音だけがあり、それが冷たい動かない風につつまれていて、目をつぶって叫んで逃げたくなるのだった。

ある日美しい女の夫を殺して女を山家に連れ帰った。この女が大変なわがままだった。不潔を嫌い、山暮らしを厭う。しかし衣服の組合せ、長い髪の手入れなど経験したことのない美を見て、男は感じ入っていた。

女の意見で京都暮らしを始めたが、女がさまざまな身分、タイプの首を欲しがり、男は取ってきて与えてやった。女は首どうしでのままごと遊びに耽る。嫌気がさして女とともに山に戻ろうとして満開の桜の森を通った時、男には、抱えている女が鬼に見えたー。

坂口安吾の作品の中でも人気、評価が高い作品だそうだ。通常美しく賑やかめ、春と、新しい年度の到来を告げる桜の風景。ただ、重なり合う桜の花にゾクっとするもの、幻想的なものを感じることがあるというのは畏怖も幻想も頷けてしまう。

公園で満開の桜を仰ぎ見てぐるりと眺め回した時、またさんざめく花の帯と春らしい空には深く対照的なものがよく似合う。

何故かお人好しの面が強いが、残忍で無慈悲な山賊の心象の中で、桜の裏側に潜むものが膨張し強い緊張感を生んでいるのはなかなか面白い。

最初は山賊をうまく切り回しているかに見えた女に狂気が宿る。力を手にして自分より上に見えた者を文字通り切り捨て、都で華やかに暮らしながら、グロな趣味に耽る。無慈悲で桜を恐れていた山賊は山と桜を懐かしむ。

ラストは破滅的で美しく、能の芝居を感じさせる。

グロは苦手だけれど、短いながら、読み応えがあって、書かれた時代をも感じさせる。「不連続殺人事件」しか読んでなかった頃に比べると、坂口安吾のイメージが変わってきた。ふむふむ、という感じです。

4月書評の5

◼️ 原田マハ「たゆたえども沈まず」

ふむ・・ゴッホ、ドラマ多き不遇の巨匠。

ゴッホはなにかと企画展や本が多い気がする。ここ数年で京都で企画展があったり、神戸の展覧会に郵便配達人ルーランの妻・ルーラン夫人の肖像が来ていたり、「ひまわりの謎」的な本を貸してもらったりした。

映画は「ゴッホ 最期の手紙」という、全編が動く油絵(ゴッホの絵の模写)という実験的映画は、とても良かった。郵便配達人ルーランの息子が主人公。最近は「永遠の門 ゴッホの見た未来」というのもあった。

さて、「たゆたえども沈まず」先に著者の「ゴッホのあしあと」を読んでからの、いわば本編。

東京開成学校でフランス語を学んでいた加納重吉は、先輩の画商・林忠正の誘いでパリに渡り、林が共同経営者となっている会社で働くことになる。浮世絵等日本美術に関連した品物を本国から仕入れ、1867年のパリ万博以来火のついたジャポニザン、日本趣味の裕福な階層に販売していた。やがて重吉は同じく画商の若き支配人、画家の兄を持つテオドルス・ファン・ゴッホと出会い、友人となるー。

いまや偉大なる画家、フィンセント・ファン・ゴッホと経済的・精神的にフィンセントを支えた弟テオの物語。そこへ、実在したパリの画商林忠正、架空の加納重吉という青年を絡ませ、フランス絵画界でジャポニズムがどれだけの影響力を持っていたか、どれほどのインパクトだったのか、という時代のベースを紐解いている。

ジャガイモを食べる人々、タンギーじいさん、ひまわり、郵便配達人とその夫人、星月夜、跳ね橋、医師ガシェ、麦畑、教会などの名作めぐり。ゴーギャンと短い共同生活を送ったアルル、精神的な病理の治療をしたサン=レミ、終焉の地オーヴェルなど画家ゴッホの旅を追う過程も何度なぞっても楽しい。そして著者も部屋を持って暮らすパリ・セーヌ川に重い存在感を持たせているのも、くるくると変わる場面に効いているように感じる。

美術の専門的な研究をストーリーにするのはもちろん、感情的な筆致も原田マハらしく、重厚な物語となっている。少し都合が良いな、というのといささか情動が過ぎるのも、らしいと思った。

ゴッホというのは生きているうちに1枚しか絵が売れなかったこと、耳切りに拳銃自殺というエキセントリックな事件、さらに強烈な個性とただよう哀愁から画壇のひとつの象徴的存在だな、と改めて感慨も持つ。原田マハが描くのは必然だっただろう。

サイド的には、この時代はシャーロック・ホームズ活躍の時代と重なり、切り裂きジャック事件にも触れていることも興味深かった。

さらに、前半、まだ世に高くは認められていなかった印象派の絵を見た瞬間のご婦人の言葉にビビビとさせられ、引っ張られた。

神話などからモチーフを取り、屋内でモデルを使って描いていたサロンの画家の権勢と逆に、光と風景を求めてどんどん屋外に出ていった印象派画家たちの作品を見事に言い表している。

ーなんてすてきなんでしょう。この絵を部屋の中に飾ったら、まるでもうひとつ新しい窓ができるようだわ!

単体で抜き出すとちょっとあざとさ、さえ漂うがナラティブの流れのなかで読むと持っていかれるんだよね。

重厚さを堪能しました。

4月書評の6

4月は11作品。読書で最も集中できるのは電車での移動中。在宅勤務はペースが崩れる。

緊急事態宣言も3回めなのにまだまだつかめないな〜。季節柄もいいし、外出したい気がむくむくと。がまんガマン。


◼️Authur Conan Doyle
「The Problem of Thor Bridge」
(ソア橋の難問)

月イチ、シャーロック・ホームズの短編を原文で読んでます。いやーやっぱ難しい。

まだ5つ。まずは56の短編を制覇することが目標。何年かかるか^_^

金鉱王の妻が死体で見つかった。広大な地所の石造りの橋の近くに倒れていて、頭に銃創があった。金鉱王が関心を寄せていた住み込みのガヴァネス、女性家庭教師の部屋から拳銃が見つかり、容疑をかけられる。金鉱王はホームズに横柄な態度で依頼するが、ホームズははねつけるー。

晩年の短編集
「The Case-Book of Sherlock Holmes」
(シャーロック・ホームズの事件簿)より。

「ソア橋」はまた別の意味で興味深い。最初の方に、銀行の金庫にワトスン氏がブリキの文書箱を預けていて、その中には、雨傘を取りに自分の家に戻り、そのまま姿を消したジェイムズ・フィリモア氏の事件など3つの「語られざる事件」があると言及されている。フィリモア氏のパスティーシュはたくさん読んだ。後年の作家により創作されている人気の事件。

さて本編。この話は良かれ悪しかれ人間力というものが表に出ている。たくさんの人間を破滅させてきたという押しの強いミリオネア、ブラジル出身の過度に情熱的な妻、若く聡明で美しいガヴァネス。

金鉱王は、金も名誉も思いのままだ、さらに

"Name your figure!"値段はいくらだ!

とのたまう。

あれこれあって、ホームズは

that you have tried to ruin a defenceless girl who was under your roof. Some of you rich men have to be taught that all the world cannot be bribed into condoning your offences."

あなたは、あなたの保護下にある無防備な女性を破滅させようとした。金持ちの中には教えてもらう必要がある者がいる。自らの罪を容赦してもらうために世界中を買収することはできないと

You have a good deal yet to learn
まだまだ修行が足りませんな

なんて手厳しすぎる言葉を浴びせるわけです。あちこち抜粋してます。

さて、容疑者のガヴァネス、ミス・ダンパーが黙秘しており、ホームズは現地踏査ののち面会する。事態は差し迫っている、全部話しなさい、と事情を聴いて、物語はぐっと動く。

で、その時何があったか、橋に刻まれた手がかりから再現して解決、となる。

再現まで、ホームズは自分の思考に沈みつつあれこれ呟く。現地警察の有能な警部も「この人、正気か?」という態度を取る。ワトスンでさえ

"I hardly follow you."
ゴメンちょっと何を言ってるかよく分かんない〜と突き放すのが面白かった。

今回のトリックは日本の推理作家にも影響を与えたようだ。ドイルは実際の事件をモデルにして小説化したとか。

初期の作品に比べ、晩年に行くに従いホームズ物語は興味深くもややパワーダウンする、と私は思っている。

この作品も、女嫌いのはずのホームズが、ミス・ダンパーを見たとたんに彼女を信じる気になったり、また確かに金鉱王の妻が死ねばガヴァネスには利があるわけだが、事件の設定が最初から出来すぎだなあという印象があって、ピタピタとはまらない気はする。ミス・ダンパーも自分が金鉱王に影響力があると知ってその財力を社会に還元しようとしていた。

私の知る女性のシャーロッキアンから、これはホームズ物語の中でもスカッとする一篇だ、と聞いたことがある。

私的には、疑問符はあるものの、人間力、男性の身勝手さ、ホームズの態度を全面に押し出し、心の旅路を描いているところは好ましいと感じている。アメリカで財を成し、南米の妻がいるというのもホームズ物語の特徴を地でいっている。ソア・プレイスや周囲の光景を控えめに表現している部分もいいかなと。

全体のうちの彩りをひとつ成している短編だと思います。

◼️ 「老子・荘子」

老荘思想がパッパと説明できればカッコいい。でも難しかった・・。

数年前から漢文を少しずつ読んでいる。どれも簡単ではないけど、唐代の漢詩から入ったせいか、それより1000年以上前の文物は難しい。

諸説あるが老子は紀元前6世紀春秋時代の人らしい。孔子とも会っているようだ。老子を読んでまず感じたのは「道」を説き、儒家の教えを強く否定しているイメージ。

「大道廃れて仁義あり」
私のいうほんとうの道がなくなったので世の中には仁愛とか正義とかがもてはやされるのです。

道、について。うむむ。

「無為にして為さざること無し」
作為的なわざとらしいことは何もしない段階に至ると、逆に何事でも為し遂げることができます。

儒家は古代の聖人たちの教え、煩瑣な礼儀しきたり、騒々しい音楽などを重んじた。ここもなかなか強烈なアンチテーゼかなと。

「我無為にして民自ずから化し、我静を好みて民自ずから正し、我無事にして民自ずから富み、我無欲にして民自ずから僕なり」

私は何も手を出さない。すると民は自然に感化され、私はもの静かな態度を好む、すると民衆は自然と正しくなり、私は何事へも干渉しない、すると民衆は自然に豊かになり、私は無欲の立場を守る、すると民衆は自然に純僕になる。

これをしないとどうなるか、は実は同じ章に書いてある。

これはするな、と干渉が増えると人々は一層貧困になり、民衆の間に奇妙な道具が増えると、世の中は一層混乱し、人々の間に目新しい技術が広まると、奇妙な機械が次々と作られて欲望を刺激し、お上が出す法令が細かになるほど、盗賊が多くなる。

結論は理想に過ぎるように思える。ただ前段は一種現代にも通じるような感覚がある。老子が好まれる理由のひとつ、かも?

仁義は孟子がまとめたそうだが、当時おそらくは沢山の一門があってうるさく理屈を言いたてる状況もあったのではと思わせる。知識を振りかざさない、足るを知る、やたらと無駄な動きをしないなどは、ああそうだよなあ、足りたことはないけど、あ、これがいけないのかも、なんて思う。

ただやはりそこを攻撃しようと思ったら老子自身も結構言を増やさざるを得ないんだろうなと思った。


「荘子」は大横綱、大鵬のしこ名の元になった巨大で雄渾な鳥「大鵬の飛翔」が冒頭に来てロマンを感じさせる。このままSF小説を始めてもいいくらいの筆致。

面白かった話だけひとつ。「輪扁問答」。

桓公が昔の聖人の書物を読んでいた。そこへ車大工の扁が

「殿様がお読みになっているのは昔の人の残りかすですな」と。

桓公は怒った。
「車大工ふぜいが何をいうか、申し開きが出来ないと死刑だぞ!」

扁は、

私は車輪を削っていますが、微妙なあんばいは口で言い表すことは出来ません。息子にも正確に教えることが出来ない。昔の人も、一番大切な、他人に伝えることの出来ないものは心の中に持ったままで死んでいったはずです。してみれば、殿様の読んでいるのは、昔の人の残りかすではありませんか。

老子、荘子、共通のこととして、言語に対する不信感があるようだ。扁が言うのはその通りだが、これも世相に対するあてつけっぽくも、なくはない。

荘子は問答をして、荘子がいつも文句ばかり言っていた相手の恵子が死に、萎れている言葉も読んで、少し切なくなった。