最近溜めてしまうな〜。すっかり10月ももう下旬に入ろうかというところ。11月に台風が上陸したことは過去1回しかないそうで、あと10日ちょっとで台風シーズンは終わり。上陸0回という年になるかな。関西的には穏やかな秋。
◼️「シェイクスピア詩集」
旅路の果ては、恋人たちのめぐり逢い。
やっぱこの言葉が一番好きかな、今のところ。
シェイクスピアのソネット集より抜粋、また劇中歌特集やシェイクスピアの長編物語詩「ヴィーナスとアドーニス」、「ルークリース」から印象的な部分を抜いてある。英語原文と訳、ページ下部の脚注も嬉しい。
ソネットとは十四行詩のことで、韻を踏むルールがあるそう。シェイクスピアの劇の台本は韻文で書かれており、だから、当時の劇作家たちは、なによりも詩人であらねばならなかったらしい。
ちなみにさだまさし「道化師のソネット」も・・十四行になってた!
ではいくつか。
◇ソネット集(18)
「君を夏の一日と比べてみようか?
だが君のほうがずっと美しく、もっと温和だ。
五月には強い風が可憐な花のつぼみを揺らすし
夏はあまりにも短いいのちしかない」
集中最も有名というソネットの書き出し。夏は過ぎ去るが、君の輝きはこの詩に永久に生き続ける、といった意味だろうか。
シェイクスピアのソネットでは最初からしばらく恋人の美しさを礼賛しているのだが、それは女性でなくて青年であることに大きな特徴がある。当時としては大胆な設定だったらしい。
◇(73)
「死の分身である黒い夜が奪ってしまう。」
語感だけでチョイス。夜は昼の死、という考え方があったという。(18)にもあるように、夜は輝きや光と対になる存在のようだ。
◇(130)
「白状するが、ぼくは女神が歩くのを見たことがない。
でも、ぼくの女は、歩くときには地面に足をつけている。
とはいえ、ぼくが愛するその人は稀有の人だと思う、
いい加減な比喩で表現されているどんな女性と比べても。」
さて、後半は賛美の対象が女性となる。その女性は黒髪に黒い瞳をした、いわゆるbrunetteブルネットの女性とされている。詩の中でシェイクスピアは金髪blondeが正統と読める表現があり、含む意が感じられる。その間に入れ込んでいるものが心のどこかに響く、シェイクスピアらしい気がする。
なんか面白い。劇中歌を一つだけ。
◇十二夜
Journeys end in lovers meeting.
旅の終わりには恋する同士が結ばれるのだ。
このセリフ、シャーロック・ホームズでも引用されている。モリアーティ教授と格闘の末滝壺に落ち、死んだと思われていたホームズが実は生き延び、3年間の空白を経てベイカー街の部屋へ戻ってきたのが「空き家の冒険」。自分の命を狙ったモラン大佐を捕まえた時、
「やあ大佐、旅路の果ては、恋人たちのめぐり逢い、なんて昔の芝居のセリフじゃないが、久しぶり。」
と声をかける。ホームズも粋だが、言葉そのものがロマンティックで恰好いい。
この巻には出てこないけれども、私がシェイクスピアを読むきっかけとなった「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ1の7巻に出てきた言葉は書き留めてある。
「ああ、 歓び以外の思いは、すべて空に消えてゆく。数々の疑惑も、先走った絶望も、ぞっとするような不安も、緑色の目をした嫉妬も」(ヴェニスの商人)
「きれいなきたない、きたないはきれい」
(マクベス)
「愚か者ほど自分を賢いと思い込む。そして賢者は、自分を愚か者だと思う」
(お気に召すまま)
劇の脚本と、詩そのものとを比べると、シェイクスピアはそれぞれテイストが違うようだ。私的には、どちらかというと劇の方が好きかな。
◼️谷崎潤一郎「蓼食う虫」
大谷崎、作風の転換点の一つとされる作品。ヘミングウェイ「陽はまた昇る」を思い出したな。
先日地元の谷崎潤一郎記念館を訪れた時に買ってきた。「細雪」のあとがきで著者が自薦していた作品の一つ。「刺青」なと耽美的、また悪魔的?などと言われた谷崎が関東大震災を機に関西へ移り住み、上方演芸の文化に触れ、作風が変わったとされているとか。人形浄瑠璃、長唄などの他、大正の風俗をふんだんに織り込んでいる。
<イントロダクション>
親が遺した資産で裕福に暮らしている斬波要と美佐子。2人は夫婦関係に行き詰りを感じており、美佐子は愛人・阿曾の元に通うのを隠さず、要もそれを認めていた。別離を美佐子と話し合ってはいるものの、夫婦ともにズルズルと決められない。要は道楽好きの美佐子の父に付き合い、淡路島へ演芸見物の旅へと赴く。義父が囲っている若い女との3人旅だった。
やはり真ん中の淡路島人形浄瑠璃イベントに目を惹かれる。のどかで、家族連れが色とりどりの弁当広げて、ガヤありケンカあり、地元の人々が楽しむ一大イベント。のどかさばかりでなく、演し物や演芸に対する深い知識と愛着が垣間見える。人形と一緒に映った写真をたしか記念館で見た。
まったく被ってなくて意味合いも違うが、ヘミングウェイ「陽はまた昇る」のスペインの牛追い祭のシーンを思い出す。前後の、パッとしない恋愛関係、一時大戦後のニヒリズムの中、この祭は生命のエネルギーの象徴のように思えた。だからデカダンもより際立っていた。
前段後段は夫婦2人の奇妙な関係性、妻の愛人が須磨に住んでいることまで知ってて、行ってきたら、みたいなことを言う。一方で要はなじみの外国人娼婦のところへ通っている。しかし美佐子は要の着物の脱ぎ着も手伝うし、なにもしないけれども寝室も一緒。別れは決めているのにグズグズとしている。その冷たさと、なんともいえずうまくいかない感情、ちょっと意固地さも見えるのが主題か。確かに耽美ではないし、魔界の匂いもしない。
旅から帰り、義父が娘の美佐子を連れて南禅寺の瓢亭へ。「細雪」を思い出す。
なかなかこの作品の良さをスカッと言ってしまうことは難しいのだが、美佐子のすれた美しさ、義父の囲っているお久の従順でいくぶん幼さの残る魅力、色彩感、リズム感などが織り込まれている。要が読んでいるアラビアン・ナイトもなにやら意味深だ。
ふむふむ、同じく転換点とされている「卍」はどうなんだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿