2019年11月17日日曜日

11月書評の4




クリームパンが大人気のバックハウスイリエのドーナツ。


ソファに膝をつこうとしたところ、オットマンとソファとの間についてしまい、ソファオットマン間にパカッとできた溝へ瞬間で墜落、高さ40センチから体重の乗った片膝をフローリングの床にしたたか打った。


家での活動に支障はないが、外ではうまく足が動かず鈍い痛みも伴う。これ以上ダメなら整形外科医で診てもらおう。


◼️チェーホフ「かもめ・ワーニャ伯父さん」


絶望から忍耐、その先には。チェーホフ四代劇は文学的。


シェイクスピアをひと通り読んでから、定期的に劇ものを読む習慣がついた。

「かもめ」はまた、北村薫の「円紫さんと私」シリーズの主人公である女子大生が最初の方に読んでいた本でもあり、覚えていた。


「かもめ」は裕福な地主の美しい娘で女優志望のニーナが有名作家のトリゴーリンへの憧れからトリゴーリンと一緒になり子を設けるがやがて捨てられる。ニーナはモスクワで女優として一時活躍もするが、今となっては地方興行、いわゆるドサ回りをするしかない立場に落ちぶれた。


田舎でニーナを囲む者たちは元女優のアルカージナ、元彼でアルカージナの息子、後に作家となるが、戻ってきたニーナにふられ自殺するトレープレフ、トレープレフに抱いた恋心を吹っ切り、教師で貧乏を嘆いてばかりいるメドヴェージェンコと結婚したマーシャら。


容赦ない現実と、それに対する忍耐を医師や地主、教師、栄光の時が去った女優ら多くの視点から描いている。きらびやかなものを求める若さゆえの熱情ともはや取り返せない結果を見せ、なにかが産まれる胎動を感じさせる。


マーシャとニーナ、トレープレフといった若者の対比が神韻縹渺たる雰囲気。忍耐かー。


シェイクスピアは、喜劇も悲劇も舞台効果を考えながら作った脚本ということが分かる。しかしチェーホフは土臭い部分もある、文学作品といった、文学作品というイメージだ。かもめ、の意図は直截ではあるが、陰鬱な暗示で、効いているな、と思う。


「ワーニャ伯父さん」


は亡くなった妹の元夫である大学教授〜今は若く美しい妻のいる〜に人生を尽くし、領地の経営をしてきた47歳のワーニャたちに対して、教授はワーニャの姪で教授と先妻の娘・ソーニャのものであるこの土地を売却してしまってはどうか、と提案しワーニャが猛反発する。


老教授と美貌の妻エレーナが街へと去ってしまった後、残った姪のソーニャがワーニャを諭す。


「でも、仕方がないわ、生きていかなければ!」


この戯曲の最も感動的なシーン、だとのこと。


忍耐については「三人姉妹」へと続き、それが新たな喜びを生むのが「桜の園」とか。


うーん、もう少し読み込まなければ分かってこないかな。「かもめ」は若さのほとばしりと対比がよく見えたが、「ワーニャ伯父さん」はどうしてそんなに尽くす必要があるのか、というとこから分からず、最後の盛り上がりについていけなかった。正直。


シェイクスピアは先にも行ったように題材も、その時代より古く、余興としての劇というイメージが強いが、チェーホフは忍耐と労働、という、おそらくロシア的な価値と現実への対応を主軸に置いている。


ふむうむ。「三人姉妹」「桜の園」に進んでみよう。


◼️長野まゆみ「レモンタルト」


ふふふ、なんて感じの読後感。

かわいいタイトルとは程遠い、手練れのクセある作品。


少年、のみを脱した進化版の近著。でもテイストはやっぱり(笑)生きていた。ミステリっぽくもある興味深い雰囲気の連作。


長野まゆみはわりに多く読んできた。「少年アリス」を筆頭とする異世界美少年もの、「カンパネルラ」などの親族(男性限定)葛藤ものがその代表的な作品の性格だが、最近は違うようだ。


近著はそんなに読んでないが、賞を取った「冥途あり」をはじめ、女性も出てくる(ここちょっと力説・笑)ちょっと深めの、面白いものに手が届きそうな、そうでないような独特の雰囲気を醸し出しているものに変わってきたのかな、という感触だけ、ある。今作もまたそのようなテイストを纏った興味深い作品だった。


両親のいない士(つかさ)は姉を病気で失い、姉の夫だった義兄と2世帯住宅に住んでいる。士は某企業の重役の庶子であり、現役員のYの手引きで入社した。総務部に席を置くが実際の仕事は役員が振ってくる、少々闇色の業務。


必要であればカラダを使ってターゲットの情報を集めろ、とか。人事部長の息子を雪山の別荘に連れて行ったり、役員の家族へのプレゼントを買っておいたり、犬の散歩をさせたり、愛人関係の業務も書いてたかな、挙げ句の果てに入社試験最終面接の学生たちの前で服を脱げと命じられたりする。


念のためだが、士は男だ。長野まゆみが描く恋愛はBLが基本である。この作品ももう花盛りでござった。


それでエピソードの中での士はもう、やられ放題のキャラである。


最初の「傘をどうぞ」では

家に侵入された男に椅子に縛りつけられ危うく犯されかける。その時、士は男を冷静に文学的に分析して、襲われることに暗鬱になっていた、とのんきにのたまう。困ったことになっちゃったなーって雰囲気にあまりにやられなれちゃいすぎだろーっとツッコミをかましてしまい、苦笑してしまう。


次の「レモンタルト」では唇を奪われ、さらに鈍器で頭を殴られて意識を失う。その次「北風吹いて、雪が降ったら」では冬の高速のサービスエリアに取り残される。「とっておきの料理」では厳しい入社試験を潜り抜けた同期のエリートに役に立たない縁故入社の社員、役員の犬、と侮られ、殴られたうえに罵倒される。


ここまでだけでもマンガ風の物語になりそうだ。しかしところが、それだけではない。


各短編はおおむね軽いミステリー仕立てになっている。「傘をどうぞ」では駅で女に手渡された傘をめぐり士は中年の男に凌辱されかける、また鈍器で殴られる、部長の息子に車を乗り逃げされる、同期の男にどつかれる、などなどの理由は?というもの。


探偵役はそういうのが好きな義兄で、スラスラとうさんくさげな、しかし言われると鋭いような気もする三文小説推論を仕立ててみせる。が、本当に合っているかは分からない。ゆえに、この短編集には北村薫のような、日常の謎を追う風情から幻想的っぽさまでが漂う。


劇中で士は殴られた同期とムフフしちゃったりそれを義兄に見られちゃったりするが、この連作短編中では士の義兄に対する恋心が全編を貫いていて、じわじわと高められる。

義兄は士が死ねば、家と土地の権利や姉から受け継いだ財産が手に入る。劇中では「毒があればもっとよかったけどな」なんて緊張感のあるセリフが出て来たりする。再婚の話も出ている、と複雑だ。


さらにさらに、作中には士の亡き姉への想い、義兄の姉に対する心持ちと大人の行動が散りばめられ、最後の方では泣いちゃったりするのである。


少し不思議な設定にまるで伊坂幸太郎のような遊びとサスペンスがあったり、すべて解決しないところに魅力が逆にあったり、さらに食べ物、ケーキ、煮込みにほっこり感があったり、情事の後の素っ裸のプレゼンなど、刺激的で笑える場面があったりする。決して夢中になったり大笑いできるような作品ではないのだが、手練手管と作者の特性を込めており興味深い。


いやー、この感じと技術はもはやマジシャン、魔術師、を通り越して魔道士ではないでしょうか。


近著、さらに読みたくなった。


11月書評の3







むかごごはんのおにぎりと、息子の修学旅行のお土産、長崎カステラ。話を聞くと、長崎では平和祈念像、グラバー邸と私の小学校の修学旅行コースを回ったとか。関西に移り住んでもう四半世紀。まさか親子2代で同じとこ行くとはね。

◼️安部公房「笑う月」


「空飛ぶ男」が改稿されていた?


安部公房の評価がヨーロッパで高いのは知っていたが実際に読んだのは「砂の女」そして昔教科書で読んだ「空飛ぶ男」のみ。


図書館で物色していたところ目に入ったから、目次で「空飛ぶ男」が入っているのを確認してから借りてきた。


この「笑う月」という本は「創作ノート」的なものだという。たしかに「箱男」の登場人物に関する言及と掘り下げっぽいものがあったり、自分が見た夢は朝起きてすぐテレコに吹き込むという習慣であり、見た夢に関してのエッセイのような短編が続く。


しかしその内容から現実の自分に即しての考察なのか、エッセイの皮を被った創作なのかよく分からなくなってくる。説明されてても理解に困るような頭良すぎる学生の論のような言葉が紡がれている、というのが正直なところ。


後半ははっきり創作と分かる作品がいくつか。そしていよいよ「空飛ぶ男」となるのだが、なんと結末が違った。


昔教科書で読んだ時には空飛ぶ男と話している主人公は穏やかさを保っているものの、ある瞬間冷静さの糸が切れたように恐怖を感じ、叫ぶ?空飛ぶ男は逃げ去る、というもので、納得感は深かったのだが、今回の短編は終始落ち着いた会話を交わし、何事もなく空飛ぶ男と別れる、という終わり。あれ?と。


色々調べてみたら改稿された作品らしい。これってあり?有名な話なのかな?とちょっと混乱した。


文中の「冷えていないビールの栓を抜いたような息づかい」とか「汚れた黒い水のようなおびえ」とかの直喩が文をかみくだく脳を刺す。やはりどちらにしても非常に印象に残る作品だと思う。朝の空に背広、ネクタイをして眼鏡をかけたふつうのサラリーマン然とした男が飛んでいる、というのはとんでもなくシュールだ。



全体的には、リアルな描写もあるが、まあ幻想的というか普通の現実からの飛躍が激しい話、という感じである。


他には、謎の大きな鞄に人が振り回される「鞄」。これは鞄を持ってきた男の「私の額に開いた穴をとおして、何処か遠くの風景でも見ているような、年寄りじみた笑い」を浮かべる。分かるようでいて、とても謎めいた例えだと思った。

船が沈没し、食料のない救命ボートに乗った医者とコックと二等航海士が、我こそはと犠牲になりたがるカニバリズムの話、「自己犠牲」もシンプルで良かったかなあ。


安部公房は笑う月が追いかけてくる夢が怖かったという。ところで自分が怖かった夢といえば・・


巨大なゼンマイの一部が捻くれてしまい、時計だがなんだかはうまく動かなくなってしまう。自分に全責任があり、朝までに直さなければならないが、絶望して泣く、というのを小さい頃よく見たな、と思った。


ちょっと読む順番をミスったかな、もっと有名作をいくつか知ってから読むべき本だったかと後悔しかけたが、「空飛ぶ男」の事を知ったのは良かったかも、と今では感じている。


◼️澤田瞳子「泣くな道真 大宰府の詩」


大宰府はこの地の統治組織の名前で、住む土地としての名称が太宰府だったと思う。確か。


失脚させられ権帥として左遷の憂き目にあった菅原道真。消沈していたが、博多津に集まる外国からの書画骨董への目利きに能力を発揮し、元気を取り戻す。


道真を取り巻くのはうたたね様と陰口をたたかれているやる気のないお人好しの官僚・龍野保積、小野篁の孫娘・恬子(しずこ)、いわば長官である大宰大弐の副官であり恬子の兄、小野葛根、そして道真お付きの安行ら。


劇中に苗字は出てこないが、安行というのは味酒(うまさけ)安行という実在の人物。道真が死んだ時、味酒が棺を牛車で運んでいたところ突然牛が動かなくなり、そこを墓所としたのが太宰府天満宮の始まり。今でも太宰府天満宮では味酒さんが関係者として役に就いている。


話はややコミカルに進み、恬子が人でごった返す博多津に連れ出したり、保積や安行が右往左往したりして進む。平民に身をやつし、動き回るうちに民草の暮らしのあまりの悲惨さを知り、さらに幼い我が子の死に打ちのめされる。大宰府では大問題に保積の息子三緒が絡み、保積はその解決法を道真に相談する。


という進行なのだが、どうも乗り切れなかったのが正直。言葉や当時の制度など時代考証はよくなされ、過剰なくらい散りばめられている。しかし、正直もうひとつ面白くない。物語としての盛り上がりも、ちょっと人工的、作り込んでいるのが見えるような気がした。せめて壮大にして終わって欲しかったかな。


読みつつ大宰府から博多津までは二時間もあれば歩ける・・昔の海岸線は今より南

つまり大宰府に近い方にあったというし、祖母からそんな話を聞いたような気もするが、いや、二時間では絶対歩けないから、とか地元民の突っ込みをしたり、めったに雪は降らない・・日本海側の福岡の寒さを知らないな、関西より寒いぞ、なんて思ったり。


うーんどうも読み方も悪かったようだ・苦笑。


菅公の人生のほとんどは京にあり、死後の祟りはそれはものすごい威力だったのが有名ではある。先ほどの天満宮の話も死んだ後だし。そんな中太宰府での物語を作るとちょっと浮いたような感じになってしまうのだろうか。伝説はそれなりにあってもっと寄り添って欲しいような気もした。逆にコミカルに徹底もしても良かったかとも思う。


ちょっと期待したけどね。。ただ「応天の門」読んで多少の知識があったからそこは楽しめた。


澤田瞳子氏には奈良時代の著作もいくつかあるとか。また読んでみようか、というところ。






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2019年11月10日日曜日

11月書評の2







奈良でいつも行くフルーツ専門店のサンド。飲み物はカリンティー。

神戸の旧居留地ではルミナリエの準備が。久しく行ってないなー。

◼️武田珂代子「太平洋戦争 日本語諜報戦」


「山河燃ゆ」が蘇る。英語圏の国における日本語諜報要員育成の過程を追ったもの。


1984年、「山河燃ゆ」というNHK大河ドラマがあった。私がそれと認識して初めて続けて観た大河だと記憶している。松本幸四郎が日系二世のアメリカ軍言語官の主人公で、東京裁判の法廷通訳モニターを務めていた。途中で殺されてしまうが、沢田研二もアメリカ軍所属として出演していた。おそらくNHK交響楽団が演奏していた重々しく葛藤を感じさせるオープニングテーマは今でもメロディを覚えている。実在の人物をもとにした山崎豊子の「二つの祖国」が原作ということは今回初めて知った。


アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダは第二次大戦前夜、日本との間に軍事的緊張の高まりに応じ、もしくは開戦してから、日本語を理解し駆使する要員の必要性を感じ、養成機関を設立する。


オーストラリアやカナダは立ち上がりも遅く、また特にカナダでは国内で日本人移民に対する暴動が勃発したこともあり、国軍から二世を排除していたが、立場は高くないながらもアメリカ、イギリスは大勢の人員を必要としたことから積極的に起用した。


捕虜や遺体が所持していた「捕獲文書」の翻訳、捕虜の尋問、傍受した通信・暗号の解読、さらには投降を呼びかけるビラや戦地での実際の説得などその任務は多岐にわたり、さらには日本の兵舎敷地に潜入して作戦会議や指示を聴いたり、交戦時例えば日本軍が退却の指示を出している中「進め」「突撃」と声を出し撹乱する役目も担った。


これらの周到な準備により戦況を有利に勧められたとしてマッカーサーは「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」と発言したという。


任務に当たったのは二世ばかりではなく、日本から帰国したアメリカ人、イギリス人などももちろん含まれている。ドナルド・キーンをはじめ、彼らが戦後、日本関連の業績を残したのも戦争の副産物として興味深いものがある。


この本では主に各国の要員育成の実情を資料をもとに述べているが、最終章に二世たちの葛藤もまとめている。


いわゆる二世たちは、親が日本からアメリカやカナダへ渡り、子どもを日本へ送り日本の教育を受けさせてまた帰ってくる「帰米」「帰加」の人々が多い。戦時、家族とともに収容所へ入れられており、その中で志願した者も多かった。父母の祖国と戦うことに加え、軍の中での人種差別や偏見とも対峙しなければならなかった。「山河燃ゆ」の松本幸四郎も様々な矛盾・葛藤に苦しみ最後は自殺する。


この本では最初の章で、戦前ハワイや北アメリカに渡った一世たちが日本の文化を学ばせたいと日本へ子弟を送った際、数少ない受け入れ機関だった熊本県の九州学院を紹介している。私の父は、九州学院卒だ。なんとなく縁を感じる作品ではあった。


さて、ひとこと。助成の費用を得て書かれた作品とのこと。ようは論文かと思う。研究書、新書の類には、淡々と事実、数字を羅列していて、あまりにも読ませようとする姿勢に欠けている本が見られる。これもその一つ。事実は興味深いが、とても退屈だった。もう少し学者さん、そして何より編集者は心に留めてもらいたいと思う。もう少し、できるだろう。


◼️アンソニー・ホロヴィッツ

「カササギ殺人事件」上下


「えーっ」と。

下巻に進んだ時のびっくり感は特筆もの。


大戦後のイギリスの片田舎と現代のロンドン。上下巻で2つの大きなミステリが楽しめます。


帰郷した時に呑んだ大学の先輩。ミステリ好きで話が合う方と読書の話をしていたら


「もう『カササギ』読んだか?いいぞ〜イヒヒヒ」


と言われた。書店でも目立つし、ホロヴィッツといえばコナン・ドイル財団公認のシャーロック・ホームズの「新作」である「絹の家」や「モリアーティ」を読んでいるので当然知ってて楽しみにしていた。


さて、上巻。戦時はユダヤ人の収容所に入っていたこともあるアティカス・ピュントが探偵役で物語は展開する。


イギリスの片田舎の村の屋敷で家政婦が階段から落ちて死ぬ。家政婦の息子が殺したのではと噂が立ち、その婚約者がロンドンのピュントのもとに救いを求めて依頼に来る。


ピュントは余命いくばくもないことを医師に告知されたばかりということもあり、依頼を断りアドバイスをして娘を返す。ところが、その屋敷の主人が首を切断されて殺され、ピュントは捜査に乗り出すー。


アガサ・クリスティーへのオマージュ的要素を持つ作品、というふれこみもあった。私はクリスティーの有名作を中心に昔読み、最近いくつか再読したくらいで詳しくはない。ただ「オリエント急行」や「そして誰もいなくなった」のように、登場人物たちそれぞれに謎の要素を匂わせる手法はよく似ている。人々と物語に「揺らぎ」を与えていて上手い。


お気に入りの森を売却され怒る牧師、若い愛人を囲っている屋敷の主人の妻、実妹でありながら屋敷を追い出され、果ては家政婦がいなくなったからやらないか、と主人に勧められた婦人と容疑者それぞれに動機がないことはない。ピュントは手がかりから仮説を立て、犯人は分かった、というところで下巻へ。


ところが!下巻はまったく現代の話。えーっ、そんな、どうなるの?と読者を当惑させるのが作品の大きな仕掛け。アティカス・ピュントシリーズを書いていたアラン・コンウェイが自分の家にある塔から落ちて死ぬ。アランもまた不治の病で、遺書が見つかった。担当編集者のスーザンは「カササギ殺人事件」の失われた解決編を探して関係者の間を巡るうちにコンウェイの死は殺人ではないかという思いに突き動かされ、調査するようになる。殺人かどうかも分からない中、こちらも多くの人が動機ある容疑者候補として挙げられる。


さて、アランを殺した犯人は誰か、そして「カササギ殺人事件」の結末はー。


読み手は突然の二重構造の提示にびっくりした後、ダブルの伏線が劇中劇とスーザンのいる現実世界とにオーバーラップしてないかと気をつけて下巻を読むことを強いられる。そして無事、全てを手にした時の安堵感というか、虚脱感を味わう。


ハンパない「おあずけ」で悶絶したぶん、ラストに2つの解決を一気に経験して2倍のカタルシスに浸るというわけですね。


いやー練りに練った作品、という感じでしたねー。古き良きイギリスミステリーの味もしっかり味わえたし、何よりこの過去と現在、架空の作品と現代の事件を絡めたダイナミックな仕掛けを楽しむものでしょう。下巻に入った時本当にえーっと思ったし^_^


謎、森、葬儀、夜の訪問者、過去、など雰囲気の作り方も良く、また現代編では同性愛、中年の女性編集者の立場と恋人との岐路など上手に色合いもつけている気がした。


見事なものだと思う。


ただ違和感もすこうし。ストーリーを導くように配した伏線が先を予想させてしまったり、証拠によって十分な結論を出すのではなく、結論に推測部分があるかな、少しジャンプしてるかな、と思ったり、登場人物の考えに対してズレを感じたりした。登場人物への愛着ももひとつ湧かないかな。


まあ特にプロの探偵と違うスーザンの行動の素人っぽさを浮き立たせる狙いもあるのかも。


ただ全体的には満足できる読後感だった。最後の方は実はオリエント急行よろしく、容疑者全員がまさか?なんて思ってしまったし。ホロヴィッツというのは、器の大きさとキレを感じさせる作家さんだと思う。


アランの恋人、ジェイムズ・テイラーは、ラグビーワールドカップの影響で、南アフリカのスクラムハーフで金髪をなびかせたデクラークを想像してしまった。この時期ならでは。


カササギ、マグパイというのはシャーロック・ホームズのパスティーシュで美術品を愛好する犯罪者のあだ名だったり、海外のミステリーでちょいちょい目にするイメージではある。


そういった闇にまぎれ人間社会をすり抜けるような感覚も相まって楽しめるミステリーだった。

2019年11月2日土曜日

11月書評の1







奈良の国立博物館、ならはくは近鉄奈良駅と奈良公園の間。ならば観光しない手はない。時は気持ち良い秋晴れの日。スケールのでかさ、鹿の可愛さ、大仏殿、二月堂、奈良公園、春日大社といったコンパクトさに修学旅行生も外国人旅行者も大喜び。大仏を見て、正倉院展の期間だけ外観が公開されている正倉を眺め、二月堂ひと回り、そして行きたかった三月堂(法華堂)に行って国宝たちに囲まれ、涼しい中座って、まるで異空間のような雰囲気に浸ったのでした。当たったわー。

◼️三島由紀夫「仮面の告白」


ボトムはシンプル。表現は美しくもガツッガツッという感触。


三島作品はあまり読んでなく、この有名作も初読み。主人公を離れたところで見ているような感覚、またニヒルで乾いた、偽悪的な雰囲気、という雰囲気が各作品に共通している気がする。今のところ。


さて、主人公の幼年時代から青年時までを描いた作品である。学生時代に戦争があり、疎開があり、敗戦を迎え、物語のベースに不穏な色を下塗りしている。


特に少年時代の描写は、ジグザグな路を突き当たりながら進んでいる読み具合で、言葉も表現も角張って難しく、ガツッガツッとぶつかっている感じがする。不良の近江という少年についての描写はその中でもハッとするものがある。


近江は影があり、噂も多く一目置かれている不良で、彼が懸垂の模範演技をさせられた時、同級生はそのわき毛の豊かさに感嘆とも羨望ともつかない声を上げる。


バスケットをやっていた私にも同じような経験がある。中学1年生にとって3年生はとてつもなく大人に見えるものだった。先輩たちがタンクトップ型の試合用ユニフォームに着替え腕を上げた時に見えるその部分には、自分たちが成長してまもなく行き着く先としての、信じられないような、まばゆい感覚があった。いわゆるおしゃれに気を使っている不良、まあ今から見ればかわいいものだが、にはジェームスディーンを見るかのような美しさもあった。


男性に憧れた主人公は、自分がやがて女性に一般的な欲情を持たないことを悟り、青春時代の中、水尾のように心の蹉跌として引きずる。


後半は、園子との恋でガツッとした表現は鳴りを潜め、美しい恋の場面が平明な文調で描かれる。園子は親友の妹で、結婚の話も出るが、帰結先は当然のように破局、しかし主人公は何かを掴もうとしてきるかのように他の男たち見合結婚した園子へのこだわりを引きずっている自分に気付く。園子もまた迷っているかのように逢瀬に行く。


物語のボトムはシンプルだと思う。しかし男性の肉体に魅かれる自分を肯定したい部分と女性との愛に憧れる部分との相克、時代と、自分の肯定と否定、破滅願望、喜んで行きたいけど一方では行きたくないという惧れの感情が相まって仮面を構成し、そこに人間味を感じさせる。


文中の細ごまとした園子の美しさの表現は目を惹くものがある。


「園子は途中で雨に会ったものらしく、髪のそこかしこに滴をきらめかせたまま、仄暗い客間へ入って来た。」

「奥の階段の踊り場に園子が姿を現した。(中略)高窓から落ちてくる光線に髪が燃えていた。」

「園子の自転車が硝子扉のむこうに止った。彼女は胸を波打たせ、濡れた肩で息をして、しかし健やかな頰の紅らみの中で笑っていた。」

「風に流れている彼女の髪は美しかった。健やかな腿がペダルを小気味よく廻していた。彼女は生それ自身のように見えた。」


この強調は、正常でありたいとする主人公の、ある意味叫びを表していると見えるが、作品の筆致は三島らしく至ってクールだ。


前半は正直やや退屈で読みにくかったが、文調が柔らかくなってからラストまでは一気に読めた。自伝的物語の創作物。全体の感覚はヘルマン・ヘッセ「デミアン」にちょっと似てるかな。


平明な文章で浮き上がるような光を感じさせる川端康成に比べると激しく衒学的だが、女性に関して現れるものは意外と相似があるかも、なんて読みながら思った。


ひとつ。徴兵検査を受けたのが近畿地方のH県って、兵庫しかないやんか、とは県民のツッコミでした。


◼️宮沢賢治/伊勢英子「水仙月の四日」


青、藍いろ、紫、灰色、黒、白、その中に赤。


宮沢賢治の童話に、絵本作家の伊勢英子が作画した絵本。「絵本入門」で紹介されていた作品。


春、象の形の雪丘の裾を、赤いケットにくるまった子供が、カリメラのことを考えながら、うちの方へ急いでいた。猫のような耳を持った雪婆んごは遠くへでかけ、空はよく晴れ、青びかりが波になってわくわくと降っていた。


雪童子(ゆきわらし)は雪狼(ゆきおいの)とともに散歩していた。子供を見つけ、雪狼がかじり落とした栗の木の枝を子供のほうへ放る。


やがて空の仕掛けを外したような、ちいさなカタッという音が聞こえたかと暗くなり、あっという間に吹雪になった。尖った耳とぎらぎら光る黄金眼を持った雪婆んごが3人の雪童子と9匹の雪狼を連れて戻ってきたのだ。


雪をもっと降らせろ、子供の命をとってしまえ、と吠える雪婆んごに従うふりをして、元いた雪童子は足が雪から抜けなくなっていた子供に突き当たり、倒す。きょうはあまり寒くないから、ケットをかぶって寝ていれば、吹雪をやりすごせるのだ。


意識を失った子供の上に、雪童子は雪をかけてやる。


そして雪婆んごが去り晴れた朝、雪童子は子供の上の雪を飛ばし、赤いケットが見えるようにする。子供は目を覚まし、父親が走ってくるー。


ジャック・ロンドンの「野生の呼び声」で、さらわれてそり犬になった家犬が、冬に外で寝るときは、雪に穴を掘って入っていると意外と暖かいと発見する場面を思い出す。


この本は、「絵本入門」の資格表現の項で取り上げられていた。全編を占める雪の表情を書き分けているのが見事である。寒い時、天気が良い日ほど物の影は紫がかって見えるという感覚の表現、また「空の仕掛けを外したようなという部分は、大きなふたつの四角の一角をずらし、隙間に白くなった太陽を入れている。雪の乱舞、雪童子と雪狼が舞い、前も横も見えない吹雪のさま、また黒雲の隙間に見える雪婆んごの眼、朝の蘇生など、その雪のある場面の描き分けは読んでいて唸るものがある。


寒色が多い中、子供の赤いケットが鮮やかな存在感を与える。


「桔梗いろの天球には、いちめんの星座がまたたきました。」

「(雪童子の)頬は林檎のよう、その息は百合のように香りました。」

「雪狼は起きあがって大きく口をあき、その口からは青い焔がゆらゆらと燃えました。」


宮沢賢治のストーリーと言葉はキレが素晴しく、醸し出している妖しさ、美しさに心酔する。その上に伊勢英子の場面表現が加わって物語の魅力を増している。


絵本の可能性をひとつ、実感を持って分かった感じだ。


水仙月は創作と思われるが、水仙の時期がほぼ4月で、春の嵐の日だろうとのこと。これもいい言葉だ。

10月書評の7




秋晴れの日に正倉院展に行ってきた。朝行って、10分待ち。やっぱり多かったけど会場の奈良博は大きいので、まあ多い方かなくらいの混み方だった。大仏開眼法要に身につけられた装飾具や蒔絵っぽい装飾の鏡のケース、また木琴など興味深かったが、2フロアで終わりなのでちょっとあっさりだったかな。

◼️「ベーシック 絵本入門」


滋味掬すべし絵本の世界。こんなに活動させてくれる本もない。一種至福でした。。


書評サイトでいただいた本。


活動というのは、取り上げられている絵本を、持っているものを全部読み直し、持ってないものは図書館や本屋で立ち読みすること。短い期間にたくさんの絵本を読んだ。ひとこと、楽しかった。


本書は専門的に絵本論を学ぶ学生のための入門書として作られたものだとのこと。第I部が「絵本とはなにか」で絵本史、文章と絵の技術的分析、対象読者の研究、そして物語絵本の種類、創作、昔話、ファンタジー、文字なし絵本などのジャンル分けと説明が分かりやすく展開されている。


で、説明の中で著名な絵本が出てくるのだが、まずここにハマってしまった。


私は子育て中読み聞かせが大好きで、たくさんの絵本を読んで来た。それらを見直し、別の角度から見る機会の到来だった。


まずは北欧民話「三びきのやぎのがらがらどん」。


小さいやぎ、二ばんめやぎ、大きいやぎ、のがらがらどんが草を食べに山へ向かうが途中橋下に魔物トロルが居る吊り橋を渡らなければならない。読み手としては三びきのやぎとトロルの声調をどう変えるかがポイント。14役。まるで落語の世界。本書ではページ配置と事物を描く位置の説明の例として取り上げられている。


絵本は通常左から右に物語が進む。「山への登り」の表現について、二ばんめやぎのがらがらどんのところ、登っている時は左下から右上へ進行方向があり、トロルは右上、やぎは左下に居る。これが、ページをめくると、魔物トロルとやぎの位置が逆転し、左下にいるトロルが右上のやぎを見送っている。二ばんめやぎは軽やかで口がたっしゃで、まんまとトロルをかわして吊り橋を渡って、トロルより高い位置に行ってしまったのである。こんなにテクニカルなことだったのかと原理に感心。


また、この作品、針葉樹は縦横の線を大胆に使って書いてある。語りのテンポも良いとの評価。ふむふむ。絵本は数読むけど、その評価とかどれほど有名か、ましてや技術論なんて知らなかったから新鮮だ。改めて読み直すとへええと思う。



「枠、はみ出し」の項目では


モーリス・センダック「かいじゅうたちのいるところ」


が取り上げられている。最近映画にもなって、有名ですね。


主人公マックスは枠の中でいたずらの限りをつくす。読んでみる。おっ、本当だ。最初の方は右ページにある絵の枠が小さく四方に余白があるのにだんだん大きくなって、舟出のシーンでは左ページの一部にまで広がっている。さらに枠から大木がはみ出ている。枠は左右いっぱい、下に余白という形になりマックスがかいじゅうたちと遊ぶところでは余白がなくなっている。そして家に帰りたくなった時はまた小さくなる。マックスの心の解放度によって枠を操作しているのか。ふむふむ。


凸版画 のところで


レオ・レオニ作・谷川俊太郎訳の名作

「スイミー」


が出てくる。小さい多くの魚たちはゴム印のスタンピング。くらげやいせえび、海藻類やうなぎも実に思い切った感じの手法で、甲殻やわかめの生き物らしい色が表されている。クラゲは明るい多彩な色付けだ。改めて見るとこんなんだったんだなあと再発見。


詩的で巧みな文章も出色。

「あさの   つめたい  みずの  なかを, 

ひるの  かがやく ひかりの  なかを,

みんなは  およぎ,

おおきな  さかなを  おいだした。」


コラージュという絵具以外のものを貼る手法の項では、オリジナルの色紙を作って貼合わせた、これも有名な、


エリック・カール「はらぺこあおむし」。


食べ物に穴が空いている、ページにホントに穴を穿っている作品。カール氏はかなり独創性に富んでいるようだ。気をつけて再読すると、あまりにも鮮やか、また硬い軟らかいでいうと硬質だが、洋梨など微妙でリアルな色合いを出している。深い感じ。これホントに色紙?素人ながら見事さに唸る。


もちろんあくまで入門書なので、一つの項目にもたくさんの当てはまる作品があるのだが、基本的に絵とテキストが例としてあるのが、こんなに面白くて分かりやすいとは思わなかった。


II部は名作絵本から学ぶコーナー。外国・日本合わせて60作品。1作品1ページ丸々じっくりとした解説が付いている。読んだことのないものも多く、図書館と書店。すでに


「もこもこもこ」「すてきなさんにんぐみ」「100まんびきのねこ」「かようびのよる」「よあけ」「すきですゴリラ」「ちいさいおうち」「おんぶはこりごり」


を読んだ。「100まんびきのねこ」は見開きをページの使い方に感心。同じく構図では「ちいさいおうち」が定点観測のような手法で面白かった。文字が少なく、カエルが大量に葉っぱに乗り飛来する「かようびのよる」はなかなかスカッとして面白かった。印象が強かったのは


ユリー・シュルヴィッツ「よあけ」。


おじいさんと孫が湖で毛布にくるまって寝ている。刻一刻と夜明けに近づく湖の描写と、最後の仕掛けが素晴らしい。エクセレント。余分な説明を排除して感性に訴える、絵が語る絵本の代表的な作品だそうだ。


我が家にあるものでも上で挙げた作品を読んで、絵本から本格的な読み物への橋渡しをしていく過程の本だという


林明子「はじめてのキャンプ」


〜子どもも私も大好きだった、とてもいい作品〜も読んで、まだまだ

「おおかみと七ひきのこやぎ」

「もりのなか」

「どろんこハリー」

「いたずらきかんしゃちゅうちゅう」

「しずくのぼうけん」

「ちいさなヒッポ」


も読み直さなければだし、本書で紹介されていて、読みたい絵本はまだたくさんある。


こうしてみると、誰もが読んだことのある絵本を技術的な視点で振り返ることができ、紹介されているうち、興味のある本はほとんど図書館にあるから手にできて読む時間もさほどかからない。絵本の賞や作家とその特徴にも詳しくなれる。


これ一冊だけでどんだけ楽しめるんだろう。

きょうはまた図書館で


作・宮沢賢治/絵・伊勢英子「水仙月の四日」は予約した。


様々な手法と訴える手段を考えると、絵本にはすでに数え切れないくらいの個性があり、まだまだ素晴らしい作品が生まれてきそうな素地がある、可能性が広がるジャンルのように思える。


常々、年老いたら読み聞かせの活動をしたいと思っているが、絵本の絵画的な部分、文章技法、伝えたいメッセージの多様さには強く惹かれるものがある。


当面絵本コーナーに行く時間が増えそうだ。とても楽しい。


◼️小松和彦「鬼と日本人」


渡辺綱と茨木童子ってどっちもシブい。


渡辺綱が美女に化けて近寄ってきた茨木童子の腕を髭切の太刀で切り落とす話が子供の頃から好きである。綱は陰陽師が勧めた物忌みの最中、母に化け訪ねてきた茨木童子を禁を破って家に入れさらに腕を見せてしまい、あっさり取り返される。 茨木童子は雲の中に消えていく。子どもの寝かしつけに何度も話した。


片や源頼光四天王のリーダークラス。片や大江山に住む鬼たちの頭領、酒呑童子の右腕。遣い手の参謀同士の闘い、ってイメージだ。シブいものを感じてしまう。


さて、この本では百鬼夜行図や様々な鬼の説話、さらに妖怪、風神雷神、節分、なまはげの事まで鬼に関連する多くの資料をもとに、鬼とは何か、文化人類学的に様々な考察を試みている。


断片的なものを含めてたくさんの鬼の話に触れられて楽しい。鈴鹿山の大嶽丸や玉藻前の話も出てきて好きなジャンル。


クライマックスはやはり酒呑童子との戦いだろう。山伏に化け鬼ヶ島への潜入に成功した一行はたくみに酒呑童子を酔い潰し、首を斬る。しかし首はひょーんと飛んできて三十重ねした兜に食いつく。その真に迫った場面の迫力がいい。


それなりに楽しんだが、文化人類学的な分析、考察は・・少し理屈先行かなと言う気がした。


鬼好き、毎年秋に大江山で行われる鬼の祭りに参加したいなと思いつつ、忙しい季節でもあり過ぎてから気がつく。


そういえば今年も行かなかったと本をめくったところで気づき、ありゃしまった、と思った。