2019年1月12日土曜日

2018年12月書評の2




初詣は3日に地元の神社へ。茅の輪をくぐってお参り、おみくじをひいた息子、期末テスト良かったのに、学問はがんばらないとすぐ落ちる、というように書いてあって凹んでました。親としてはいいぞ、神さまってとこだな。

あったかいベビーカステラ食べて、正月引きこもり用のお菓子買い足して帰った。

梶井基次郎「檸檬」


多分に内向的だが、やはり鮮やかで面白い。


「京都文学散歩」という本で最初に採り挙げられていたから再読してみた。ごく短い短編である。


私は友人宅を転々として、京都の街から街を浮浪し続けている。それは病気のためではなく、借金のせいでもない。えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終壓(おさ)えつけていたからである。


見すぼらしくて美しいもの、裏通りの向日葵やカンナに惹かれたり、遠い土地にいる白昼夢に遊んだり、花火やびいどろなど気に入ったものを思い浮かべたりしながら放浪する。


二条の方へ寺町通りを下ったところにあるお気に入りの果物屋に、その店には珍しい檸檬を見かけ、1つ買う。すると気分が高揚する。レモンイエロウの絵具をチユーブから搾

り出して固めたやうな単純な色も、丈の詰つた紡錘形の恰好も好きである。その冷たい感触を楽しみ、鼻を撲(う)つ匂いを嗅ぐ。私はもう軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持ちさえ感じながら往来を歩く。


以前はよく行ったが最近は重くるしい場所になっていた丸善に、今日は一つ入ってみてやろうとづかづか入っていく。


ところが入ると幸福な感情は逃げて行き、憂鬱になる。


しばし当惑ののち、私は袂の中の檸檬を思い出す。そして、たくさんの色彩ある本を積み上げ、奇怪な幻想的な城を築く。そしてその頂に檸檬を置いて店を出るー。


爆弾を仕掛けた奇怪な悪漢のような面白い気分で。。


さだまさしに「檸檬」という歌があるが、御茶ノ水の聖橋から、女が盗んできた齧りかけの檸檬を放る、快速電車の赤い色がその檸檬とすれ違う、という色彩的、映像的、また厭世的な歌詞でアンニュイな雰囲気を漂わせている。好きな歌。だから高校生くらいの時に有名なこの小説も読んでみたが、当時はアカデミックな素地などなかったからなんじゃこりゃ、で終わったと思う。


改めて、若いころ独特のどこか行き詰まったような重圧のようなものをベースに起き、日常の身の回りの出来事で彩りを添えながら、いたずら心と視覚、触覚、嗅覚に訴える鮮やかなものを使って見事にある突破を表現したものかと思う。本の城、という発想もグッドで、面白く、爽快感が駆け抜ける。


最初の苛々したような鬱屈した気分を、焦りや不安というよりは、鋭い感受性ゆえに強いられた胸苦しさ、と取る批評もあるようだ。


この檸檬を買った青果店は現在も同じところにある、と「京都文学散歩」(2006年発行)で読み、行ってレモンを買う気マンマンでいたのだが、なんと2009年をもって閉店したという・・ショック。その店でレモンを買って、丸善の本の上に置いて行く人が後を絶たなかったとか。


劇中三条にあった丸善は閉店したが、2015年に賑やかな河原町に再オープンした丸善にはレモン入りのかごが置かれ、「レモン置き場」が期間限定で設置されたという。今どうなってるんだろう。これは行かねば!我ながらノリやすい・・笑


色彩的といえば芥川龍之介の短編「蜜柑」も秀逸。檸檬と蜜柑、内容も似ている。面白いものだ。


カズオ・イシグロ「夜想曲集」


これがカズオ・イシグロの短編集なんだな、という感触。へんてこな(笑)話もあるが、イシグロ風の余韻を楽しめる。


醜男の売れないサックス奏者スティーブは妻のヘレンから別れを告げられる。ヘレンの再婚相手の金持ちから、後ろめたさの埋め合わせに、整形手術の費用を持つという申し出があり、スティーブは入院する。マネージャーがこれで売れるようになると張り切る中、スティーブは往年の大歌手の妻で隣に入院しているリンディと知合い、豪勢な入院ホテルの、夜の冒険へと出かけるはめになるー。

(夜想曲集)


音楽をテーマにした短編集。ジャズの名プレイヤーの名前が多く出てきて楽しめた。もちろんストーリーはそれぞれコミカルで響くものがあり、長編と形は違えど、イシグロの色を堪能できる。


最初の「老歌手」の舞台はベネチア。旧共産圏出身のギター弾きが、共に旅行に来ている妻の部屋の下でゴンドラから歌を歌いたいと往年の名歌手に伴奏を頼まれる話。夜のベネチア、ゴンドラ、セレナーデとムードは抜群。しかし・・その間に横たわる設定と筆致の妙を楽しめる。


セレナーデは日本語で「小夜曲」。「夜想曲」はショパンが有名なノクターン。微妙な違いも妙というものか。


次の「降っても晴れても」はコメディ。うだつの上がらない40代後半、ジャズ好きの独身英語教師レイが、親友夫妻のロンドンの家に招かれる。いつもは居心地のいい訪問なのに、今回は夫婦仲が危機に陥っていて、夫のチャーリーは自分の出張中、チャーリーの妻でかつてレイが良く一緒にレコードを聴いたエミリと過ごしていて欲しいと頼み込む。


躁に鬱に変わりパニックになっているチャーリー、ヒステリックな面と優しい面が交互に出てくるエミリ。レイが間で悪戦苦闘するドタバタ劇。笑える展開だ。その中にゴーゴリの「外套」や芥川龍之介の「芋粥」に通じる負け組の哀しさ、笑えないこっけいさが滲んでいる。


「モールバンヒルズ」場所はイギリスの片田舎。これまた芽が出ないシンガーソングライターが、夏の間姉夫婦が経営するカフェで働きながら曲を作る。そこへ夫婦デュオという老夫婦がやって来て彼の曲を耳にするー。


美しさを想像する風景、よくある田舎のしがらみ、義兄との確執、そして老夫婦にも感情的な色が見え、とちょっとずつの要素、物語のヒビが心に軽く浸透してくるかのような作りだった。


「夜想曲」ここで出てくるリンディの夫とはまさに「老歌手」の事でリンディは唯一のダブル出演。ちょっとお馬鹿なセレブ妻が大胆ないたずらをし、スティーブは振り回される。コントか、という展開。設定も強引。でもテレビとか映画向きで、シニカルである。夜のホテルの冒険は、誰もがワクワクするような雰囲気を放つし、どこか「トムとジェリー」っぽい、とも思った。


ラストの「チェリスト」は・・ファンタジックと言えるだろう。舞台はアドリア海に面したイタリアの小都市。立派な音楽教育を受けた売れないチェリストでハンガリー人のティボールはカフェでアメリカの裕福な女性エロイーズと知り合う。そして彼女が泊まるスウィートルームでのレッスンに衝撃を感じ毎日通うようになる。しかしー。


へんてこな、と書いたが、まあ思い切った設定で、縦横に展開されている、というところだろうか。短編ならそんな作品は溢れているし。


「降っても晴れても」以外はミュージシャンがメインの出演者。舞台もあちこちに飛び、ジャズのプレイヤー、名曲も散りばめられ芳醇な香りがある。ジャズ好きの心をくすぐりますねー。


そして今回いずれの話にも夫婦の溝、という共通のテーマがある。成り行きの全ては語られず、会話も行間ににじませたものが多くイシグロ氏らしい、と思える。


さまざまな粒がぎゅっと集まってイシグロ氏らしい塊りを作り、読者の想像に委ねる余韻を残す。カズオ・イシグロは「日の名残り」「わたしを離さないで」「遠い山なみの光」「浮世の画家」「忘れられた巨人」と読んだ。独特の読み応えが好ましい。「充たされざる者」「わたしたちが孤児だったころ」もいずれ読もう。



三上延「ビブリア古書堂の事件手帖7

                ~栞子さんと果てない舞台~」


再読。私はこの巻がきっかけでシェイクスピアを読み始めた。悲劇も喜劇も有名なものはあらかた読んだいま、年末にきっかけを読み返す。


今回はストーリーよりはシェイクスピアに重きを置いて読んだ。メインストリームの「ヴェニスの商人」は書いてることがよく分かったし、「オセロー」もやっぱりイアーゴーって悪いやつだったよなあとか思い返す。再読して良かった。


「ああ、歓び以外の思いは、すべて空に消えてゆく。数々の疑惑も、先走った絶望も、ぞっとするような不安も、緑色の目をした嫉妬も。」(ヴェニスの商人)


「きれいなきたない、きたないはきれい」

(マクベス)


「愚か者ほど自分を賢いと思い込む。そして賢者は、自分を愚か者だと思う」

(お気に召すまま)


各セリフ抜粋もやっぱりシェイクスピアは小粋。ホームズも「空き家の冒険」で


「旅路の果ては、恋人たちのめぐり逢い」

(十二夜)


を引用している。


まだ「アテネのタイモン」「ヘンリー六世」が未読なのは知ってたけど、「シンベリン」や「トロイラスとクレシダ」なども出てきて、図書館で全集探そうかな、なんて思ったのでした。シェイクスピアはやはりいい。


以下、過去書評。


ついに完結。やっと出た最終巻はシェイクスピア。白眉の大団円と言っていいだろう。パチパチ。面白かった。


ビブリア古書堂の若き店主、篠川栞子は、恋人にして店員の五浦大輔が大けがをした事件に絡み、太宰治の初版本を入手すべく業者に連絡を取ったが、現れたのは悪徳にして古書に執着を抱いていた久我山尚大の弟子、吉原だった。吉原は法外な金額を提示し呑ませた後、礼だと言って古いシェイクスピアの訳本を差し出す。


長きに渡って続いて来た超ヒット作、本好きの友のようなシリーズも本編はこれで完結。それにしても「次の巻で完結」と予告してから長かったな。


今回は・・ケタ違いの超高額な稀覯本が焦点だ。このシリーズは中だるみしたかな、と感じた際にも、先に手を打つように、江戸川乱歩や手塚治虫といった、興味を引く題材を持って来ていたが、最後も大いに気になるテーマ。それにしても、最後にして、絵画ミステリーみたい(笑)。


シャーロック・ホームズもシェイクスピアを多用していたし、今回また興味が刺激され、読みたくなった。


最終巻は、なにせ終わりをつけなければならないのて、一般的にどこか強引なもので、今回もそれが見え隠れする。また人物造形も動機も、ちょっと大げさな部分もあるが、シリーズ全体を完結するミステリーとして鮮やかだったと思うし、少々ホームズ的でもあったかな。


まあ、好きに書かせてもらえば、ネタはブルーピカソとか8枚目のひまわりで、謎は「フランシス・カーファックス姫の失踪」(シャーロック・ホームズ最後の挨拶)だな。


アニメ化・実写映画化されるそうだし、今後はスピンオフ小説も考えているそうなので、何かと楽しみだ。


永井路子「よみがえる万葉人」


万葉集の歌を詠んだ「人」にスポットを当て紹介した作品。当時の政権の黒さ。


永井路子氏の奈良ものはおそらく始めて読んだが、深く研究されていてさらにポイントはデフォルメして現代風に書かれている。


額田王、天智天皇、天武天皇、藤原鎌足という時代の主役たちはもちろん、有間皇子、大津皇子、長屋王、道祖王(ふなどのおおきみ)など悲運の皇族たち、奮闘する持統天皇、孝謙天皇、元正天皇ら女帝たち。天智天皇系、天武天皇系、蘇我氏、藤原氏のえぐい政治的暗闘が描かれている。んー黒いぞ奈良時代。


印象に残ったのは大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌。謀反の疑いをかけられ自殺に追い込まれた大津皇子の姉。大津皇子は伊勢の斎宮をしていた姉の元を事件の直前に訪れている。


我が背子を大和へ遣るとさ夜ふけて

暁露に我が立ち濡れし


夜の闇の中を大和へ戻っていった弟。弟の前途は暗く、我が身も同じ。見送った姉は身じろぎもせず、夜露に濡れて立ちつくすー。


後の方に政権中央にはいなかった歌人の紹介もある。柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良らである。私は大伴旅人、沙弥満誓、小野老(おののおゆ)、憶良らが大宰府で集っていたという「筑紫歌壇」の話が好きである。


しらぬひ筑紫の綿は身に着けて

いまだは着ねど暖けく見ゆ

                                       沙弥満誓


しらぬひ、は筑紫の枕詞だったのね。初めて知った。わが筑紫。


鴻臚館をめぐる一連の話も面白かった。鴻臚館というのは唐や新羅の外交使節が滞在したところで、いまの福岡市中央区付近にあった。


港のそばにあったのではという説が強かったところへ、大正初期、中山平次郎という九大名誉教授が「福岡城内にあった」と主張した。この人、医学部にもかかわらず当時福岡連隊が置かれていた福岡城へ入り込みスコップで地面を掘っていたところを憲兵に見つかり留置されたというどこかおかしみを感じる情熱の人。


中山らの反対の声も届かず、当時の世の無関心から、遺跡の上に平和台野球場が建設されてしまった。やがて1987年になってスタンド工事がきっかけで鴻臚館遺跡が確認され、やがて球場取り壊し~遺跡発掘となる。


あの情緒ある平和台野球場周辺に幼い頃からなじみのある人間としては感じるものがあった。いま現地は、展示館が、球場後の土地の一角に建てられている。


文中なぜか福岡城が西公園になっていた。やっぱ舞鶴公園じゃないのかな。。


さて今回、有名な歌も紹介してあるが、背景の方に意識がいってあまり浸れなかった。


私もここ数年奈良によく出かけていて、奈良の都や当時の政治に関しても少しずつ読んではいるが、まだまだ人の名前から時代の流れなどは体系的に理解は出来てない。漢字も難しいし。


いつも感じるのは、平安時代の明るさに比べ奈良は時代が「黒い」イメージだ。でも外国の侵略が現実的で国内的にも国際的にも緊張していた時期、また仏教が当時最先端の教えとして急速に広まるなど国の基盤が出来上がっていった時期のエピソードには強く心惹かれるものがある。故郷に近い太宰府の状況なども興味深い。


今年はいくつか古典を読んで、自分は万葉調が好きなんだな、というのも発見だったし。


これからも少しずつ読んでいこうと思っている。


最後に道祖王の歌を。


新しき年の初めに思ふどち

い群れて居れば嬉しくもあるか


新年の挨拶にいいそうだ。覚えとこう。


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