2015年4月27日月曜日

あちこち





なかなか移動のある週だった。月火とバタバタ仕事をし、水曜は伊賀上野へ出張。もう陽射しは暑い。休憩に大きなコーヒーフロートを食べた。帰りは近鉄特急。1時間ちょっとで難波に到着。上野もなだらかな山間の土地だが、飛鳥のような、歴史を感じさせるオーラは無い。

金曜日から東京。天気が良くて、快適。神保町に投宿し、遊んでくれる人がいなかったので、単独でかつて良く行った神保町カレーの店へ。10人ほど並んでいたが、回転が早く、10分も待たずに入店。待ってる間、店員さんが注文を聞きに来るのだが、「ビーフ良く漬かってますー。」という美味しそうな言葉に乗ってビーフカレー。チーズを乗せたライスに、ほこほこのジャガイモ。中辛でも辛くない欧風カレーに舌鼓を打った。

土曜日仕事をして夕夜帰る。一番近い新幹線にたまたま窓際が空いてた。バスのつながりが良く、新幹線降りてから1時間ちょっとで帰宅。いまは男子の出張には最も良い季節。スーツで快適な気温、まだ汗をかかないから、ワイシャツも1枚でOK。マフラーもコートも無しでいいので荷物や装備が軽い。宿は毛布2枚常備なので朝方も寒くない。

日曜日はちと疲れて軽い頭痛がしたが、コンディションを整えて、午後から息子といつものエディオンブックオフコースへお出かけ。5年生になった息子は短い区間は1人で電車に乗るしICカードも持っている。そして、ついこないたまでやってた、ゲーム機遊びをしなくなった。この日はカードゲームのデッキをしばらく悩んで購入したのみ。

隣のブックオフ、きょうは少しずつでも整理せねばと4、5冊文庫本を売るが、人が多く時間かかるとのこと。息子にケイタイゲームをさせて本を見る。新刊文庫がはや出ているのを発見。近藤史恵「ヴァン・ショーをあなたに」また、ワゴンで目についた森絵都「リズム」、そして気になっていた川端康成「雪国」を購入した。

直木賞はここ10年くらい読んだが、そういえばノーベル文学賞って知らないな、と調べた時、日本人ではやはり川端康成の文学性は特別、との感触があったから興味を持っていた。

コロコロコミック買って帰る。息子は新しいほうの靴を履いてきたから足が痛いという。でもキャッチボールは出来る、とのことで公園で野球。暗くなるまで遊ぶ。パパはフライを投げる。息子はあまり高いフライは投げられないが、速いゴロを寄越したりとこしゃく、ちょこざいである。また私も本気で捌いて投げたりとムキになってよろしくない。

涼しい風が吹く帰り道、ほら、黄緑の葉が新しい葉っぱ。新緑って言うんだよ。この季節はきれいだね、と教える。息子は無関心そうな顔をしていたが、ふと、いつまでこういうことが出来るんだろう、と思った。

2015年4月20日月曜日

深夜の雨




写真はたまたま撮れたヒヨドリ。だんだん分かっていくのがうれしい。今年の4月は雨、とにかく雨の月。日曜日の朝は雨、日中はずっと曇り、そしてまたいま降り出した。月曜日は天気が荒れるという。

とても眠かったので、息子より早く床に就き、3時ごろ起きて風呂に入った。最近このパターンが非常に多い。昨日も同じような感じだったが、風呂入った後朝までの2時間ほどが眠れず、一日中眠かった。

きょうは、部屋に来た息子が「ん、んーちょっと寒いな。」と言ったのをかすかに覚えているくらいで、気が付いたら隣で寝ていた。実はこんなことはとても珍しい。昨日は寝かしつけながら寝入る、といういつもの感じだったが、きょうは先に寝たからね。

読書は常にしていて、ネット等々で常に情報を漁っている。新刊情報が主だけれど、新刊、というのは危険だと常々思っている。なんだあんまり面白くないや、ということが多いのだ。立派な装丁なんかを見るとつい手が伸びるし実際まったく買わないわけではないが、基本は既刊の文庫で、面白いものは自然とそういう「本物の噂」が立つものだ、と思っている。やたらと情報が多い中で、それを選り分ける目が肥えてきたかな、とちょっとだけ実感している。

そういったものを調べて、ブックオフで買うと安くて充実した読書が出来る。出会いとか巡り合わせ、といった意味でも好きである。また、モットー、というか好みも一応あったりする。 

「売れてる作家さんの、注目されるきっかけとなった作品が読みたい」というのは、自然と出て来た欲求だ。そこには、世間が反応するものが含まれているはずだからだ。

また、直木賞、山本周五郎賞、江戸川乱賞は私の中では御三家。本屋大賞は読むし指標にするが、別ジャンルの賞、という気がする。こないだノーベル文学賞作家を調べてみたら、ほぼまったく読んだことがなかったので、今度はそちらに挑戦しようかな、という野望も抱いている(笑)。まずは川端康成か。そう、洋書で読みたいものはたくさんあるが、感性の違いがそうさせるのか、どうもページが進むのが遅かったりするし、終わったら日本の小説を読みたくなるので、結果的にあまり数読まない。

ガルシア・マルケス「百年の孤独」
ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」

あたりかな。古典も読まねば。死ぬまでに。

深夜の雨、だらだらとよしなしごと。まあたまにはいいか。

2015年4月15日水曜日

忙中腰痛




気がつけばもう15日。きょうは平日休みで引きこもっている。朝は晴れていたが、黒雲、白い雲がところどころ空に浮かび小雨もパラつく、寒い天気だ。本が不足してきているのでブックオフに行きたいが、この天気と、腰痛が引き留めている。

ここ10日間くらいはほぼ休みなく仕事に集中だった。物理的にも精神的にも、春から仕事は増えたし、今回スペシャルな要素も加わってちと多忙。そんな中、家で、屈むような、中途半端な姿勢を取った瞬間、左腰にピリッと痛みが走った。ありゃ、やっちゃったかな、とこの時は軽い気持ち、翌日痛かったが、外仕事で身体を動かしている時はあまり痛まなかった。

しかし、いまは、とても痛い。普段と立ち、歩きに支障は無いのだが、座ったり寝たりの姿勢から、立ち上がるまでの動きをする時ひどく痛い。しばらく重い鈍痛が続いて、その間歩きが、本当に腰が悪い人みたいに、ヒョコヒョコとなってしまう。

だから家では、眠る時以外、柔らかいソファにも行かないし、座るのはテーブルの椅子で、足と背筋が直角な、姿勢正しい座り方しかしないので、犬たちが寝転んだりくっついたりする場所が無くてウロウロしている。普段は膝に乗ったり、太腿に横からくっついたり、寝転がる時につく肘、二の腕などに寄り添うからだ。いまはチェアでもだっこ、とせがむので、写真のようにめっちゃ狭せまの状況となる。

でも痛いから仕方が無い。こちらは姿勢良く座り、立ち上がる時最低限の動きしかしたくないのである。

いまサロンパスベタベタ数貼っているが、さして効果は無いようだ。あまり痛かったら整形外科かな。久しぶりに。



2015年4月3日金曜日

3月書評の2




もう桜が満開だけど、写真は飛鳥、天武・持統天皇陵横に咲いていた梅。いつも言うが、桜よりも、梅が好きだな。

藤沢周「武曲(むこく)」

ずっと文庫になるのを待っていた剣道もの。入り口は軽く、中身は重厚、独特の表現の嵐。

鎌倉の高校に通う羽田融は、ラッパーを目指して、色んな言葉を憶えようとしている。ある日剣道部の先輩と揉め事を起こしたのが元で初めて剣道の立ち合いをすることになり、剣道に不思議な魅力を感じる。その高校にコーチとして通う矢田部研吾は父親との立ち合いで重傷を負わせてしまい、アルコール中毒に陥っていた。

東京六大学の体育会系剣道部にいらした元剣士にして読書家の女子が、自分が体験した世界に最も近い、と勧めてくれた作品。確かに中身は、剣の道が本格的に掘り下げてある。読みたくて文庫化を待ち焦がれていた。

物語は融と研吾、2人の視点からそれぞれ描かれる。アルコール中毒の研吾の描写が生々しくしつっこい。そこと、剣の道、またイマドキの高校生である融、そして湘南鎌倉の風情、そして言葉がうまくコントラストを描いている。

ラストシーンは、もはや言葉、表現の嵐である。芥川賞を取った作品、「ブエノスアイレス午前零時」を読んだ際も感じたような気がするが、独特の、難しい漢字を使い、独自の世界観を構築、もはやそこに溺れているかのような文章である。

おそらく別の作家に書かせたら、およそ半分の250ページくらいで終わってしまうだろう。こだわりと強いクセ、様々な要素を絡み合わせた重厚感。しかし俯瞰してみると都合がいいくらいスッと流れるストーリー性がある。美化に過ぎるきらいもちょっと見える、自分に耽溺しているような文章もうまく収まっている気がする。

それなりの本格派を夢中で読めて、満足だ。

湯本香樹実「夏の庭  The Friends」
 
名作系。じんわり、暗く明るく、普通な中にほんのりと温かみ。

ぼく・木山と太めの山下と眼鏡の河辺は仲良し3人組。人が死ぬ、というのはどういうことか興味を持った3人は、ある日、親がもうすぐ亡くなりそうだ、と噂していた独り暮らしのおじいさんの家を見張ることにする。

webで紹介してあったのを見て興味を持った。1992年の作品で、処女小説ながら、児童文学の新人賞を受賞、映画化、舞台化され、世界10数ヶ国で翻訳出版されて、海外で賞も取ったらしい。

物語は、おじいさんと3人の交流が中心だ。微笑ましく、小学生独特の不器用さも実感を持てて懐かしい。人生はうまく行かないけれど、というのが副次的なテーマになっていて、ボトムのほうからそれを感じさせる。

実は途中で結末が読めてしまうのだが、だからこそ安心して読める。激烈に感動するわけでは無いけれど、心穏やかに、たんたんと読める良作だ。

安部公房「砂の女」

これも、名作系。しかしホラーであり、ファンタジーでもある。さらに日本を代表する芸術作品でもあるとのこと。

休暇を取って、砂丘に昆虫採集に来た教師の男は、砂丘の部落の、砂の穴にある家に宿泊するが、村人たちの罠により、砂の穴から出られなくなってしまう。家には、女が独りで住んでいた。

1962年の作品である。安部公房はこの「砂の女」が文学賞を取り、世界30ヶ国に翻訳出版されて、フランスでも受賞、一躍有名になった。

安部公房は、教科書に出て来た「空飛ぶ男」を読んだだけだった。確かにあの短編の嗜好がこの作品にもある気がする。

砂に埋もれた部落の運命、男の理不尽な運命、そして共に暮らす女の人生。様々な比喩で男の体験による社会が、別の色を持って反芻されるが、女や部落のこともまた、社会に対する暗喩であり、ある種の表現なのだろうと思わせる。

安部公房は、第2戦後世代、と呼ばれたらしいが、筒井康隆にしろ、星新一にしろ、ある時期にSF的な作品で、アイロニーを含ませて現実を写実する手法の時代が、確かにあったのだろうと思った。現代作家にはなかなか居ないが、ある意味村上春樹にも通じてるのではないか、と感じた。間違ってたらごめんなさい。^_^

砂から逃れられないだけに、息苦しさ満載。特徴ある小説なのは間違いない。

磯�憲一郎「終の住処」

なにかしら底流に流れるものはつかめそうな話だが、あまり斬新さを感じないのも否めない。

共に30歳を過ぎて結婚した男と女。男は、妻の気持ちがつかみきれず、浮気を繰り返すようになる。遂に離婚しようと、妻をホテルに呼び出すが・・。

2009年の芥川賞受賞作。80ページくらいの表題作に、40ページほどの短編が収録されている。芥川賞作品は純文学なので、藤沢周の「ブエノスアイレス午前零時」で懲りて読まなくなっていたのだが、出張前の新大阪で見ていて呼ばれたような気がして購入。

固有名詞がひとつもなく、おかしな現象も起きる。冷えた夫婦生活と、男のサラリーマンのしての生活。あまり頭で考えるようなストーリーではないが、なんとなく、あるな〜などと思わせる感じを極端な形を取って表したものなのかな、という感想を持った。

しかし、浮かび上がらせるテーマとしては、ありがちだし、感覚的にも、もひとつ焦点を結ばない作品だな、という印象だった。

奥田英朗「ガール」

かつてのベストセラー。30代、ワーキングウーマンを主人公にした短編集。すらすらと読んだ。面白かった。

2006年の作品である。私は東京に転勤したばかりで、まだ会議室でも煙草が吸えた最後の数年だった。

若いと言えなくなった働く女たち、課長になり年下の男性の部下がついた主人公、マンション購入を考え始めてから仕事の仕方が変わった独身女性、シングルワーキングマザー、ひと回り年下の新人ハンサムくんの指導係になった女性、などテーマがハッキリした作品が収められている。

しかもその物語には、「女から見て嫌な女」役が色んな形で登場するし、友情も描いてあり、バラエテイ豊かな作品になっていて面白い。私なんかは「女のことは分からない(ほうがいい)」と思っているクチだけれど、女性に受けた、というのは分かるような気がする。

変な話だが、似通ったテイストだけど、それぞれにテーマがハッキリしている作品集は、重松清「季節風」を思い出させた。女性のファッションも含め、けっこうガチガチに計算されているような構成でありつつ、奥田英朗特有のお気楽な無責任さも感じられる、楽しい本だ。

シングルワーキングマザーの話が良かったかな。

朝井リョウ「少女は卒業しない」

来るな〜、朝井リョウ。まあもともと中高生もの、好きなんだけど。

3月25日の、卒業式の日。合併のため、この校舎は、明日には取り壊される。図書室、屋上、生徒会室・・少女たちの思い出と、この日にやらねばならないこと。

30〜50ページくらいの短編7つ。シチュエーション、ドラマの設定、ともに普通なようでそうではなく、実感するものではない。逆に構成と設定、オチ、そして表現の幅を楽しむ、感性みたいなものを巧みに衝く手法を楽しむものだろう、と思う。

高校生もの「桐島、部活やめるってよ」大学生年代もの「もういちど生まれる」家族もの「星やどりの声」と読み、そしてまたテーマをぐっと絞った女子高生もの。前3作の中ではやはり「桐島」が最も良くて、他はちょっとパワーダウン気味だな、と思っていたのだが、今回また、とても良かったと思う。

「桐島」も桐島くんは噂話に出てくるだけ、という体をとっている。また、他の短編の出演人物が薄く微妙に絡み合う。連作短編集の妙とも言うべきところだが、今回もまずまずか。

GOODでした。

3月書評の1





3月は11作品11冊。短いものもあったが、それなりに読んだ。読み応えありのものもあった。写真は、「朱鳥の陵」の舞台、飛鳥にて、飛鳥寺近くの、蘇我入鹿首塚から甘樫の丘を望む。では、レッツスタート!

坂東眞砂子
「朱鳥の陵(あかみどりのみささぎ)」

壬申の乱もの。いやあ〜難しかった。けど、読みごたえあったなあ。

文武天皇の治世(700年ごろか)。常陸の国の夢解女(ゆめときめ)である白妙は、すでに亡くなった高市皇子(たけちのみこ)の妻、御名部皇女(みなべのみこ)が見た夢を解釈すべく新益京(あらましのみやこ・後の藤原京)へと召される。そこで白妙は、現上皇である先代天皇、持統天皇・讃良皇女(ささらのひめみこ)の心へ否応もなく入り込むようになる。

昔ある時ふと、井上靖「額田王」を読んでみてから、私は大化の改新から壬申の乱前後のファンになった。とはいえこの本と、手塚治虫「火の鳥・太陽編」くらいしか知識のない身、登場人物も多いし、別名も多彩で、人間関係を把握するためにネット首っ引きで読み込んだ。

大化の改新を成し遂げた中大兄皇子は、後の天智天皇である。時代は進み、病に臥した天智天皇は大海人皇子(おおあまのみこ)に「天皇にならないか」と持ちかけるが、「これはヤバイ」と思った大海人皇子は、断りを入れ、ライバルの大友皇子へ実権を移すよう進言し、自らはその日のうちに剃髪して吉野に下る。「いいですねえ」と受けたら、謀反の疑いで殺されるからだ。しかし天智天皇の死後、大海人皇子は兵を挙げ、大友皇子を破る。壬申の乱である。大海人皇子が後の天武天皇。そしてその妻が後の持統天皇、その孫が文武天皇。いやー久々に整理した。

物語は、少女であった、天智天皇の娘・讃良と、現代の白妙の両面から進む。身分の高い女と、都に慣れない、田舎の庶民の女、両方の女性の部分を描きながら歴史の裏面を綿密に描いている。天智天皇と天武天皇に寵愛された額田王(ぬかたのおおきみ)や柿本人麻呂、藤原不比等らこの時代のオールスターキャストをうまく絡ませながら、壮大な物語を織り成している。

故・坂東眞砂子は、「山姥」で直木賞を受賞しているので、いつか読みたいと思っていたら、書店で新刊が目に留まった。一周忌に合わせて文庫が出版されたという作品。力作で、生の女性の視点で、飛鳥時代の魅力に溢れた作品。

満足だ。また、奈良に行きたくなった。

島田荘司「御手洗潔と進々堂珈琲」

興味深くはあったが、うーんいまいち、今ニ。

短編2本、中編2本、京大生時代の御手洗が、浪人中のサトルに世界を旅してきた経験を語る。最初の短編はサトルの体験談。御手洗は、イギリス、アメリカ、そしてカシュガルでの話。

内容は、障害者スポーツ、戦時の朝鮮人の悲劇、カシュガルでの、戦争前夜の出来事と多岐に渡る。御手洗らしく、いろんな知識を散らしている。

最初は小粋なミステリーの短編集かと思った。内容はまずまずで、オチも用意しているが、島田荘司がどういったものを描きたかったのかがもう一つ掴めない。

御手洗潔は頭脳派ではあるが、これだけ万能だと、ちょっと鼻にもつく。なんか期待はずれだった。

小関順二
  「2015年版 プロ野球 問題だらけの12球団」

やっぱり面白い。シーズン前の定番です。

育成型チームというのは「頼もしい」。アマチュアからドラフトで指名した選手がきちんと1軍の選手として戦力になっているのを見ると、そのノウハウばかりでなくチームの計画性や目の確かさまで信じられるからだ。FA補強が普通になった現在でも、いや、だから余計、新人で入った球団で育った選手、にはファンも愛着が湧くだろう。親から見ても、安心して子を預けられることだろう。

小関さんの素晴らしい分析を読んでいると、球団の特徴、トレンドと、そこに起こっている微妙な変化がよく分かる気がする。独特の数字を用いた理論は鋭いが、昨今流行りの難しい指数より、古い野球ファンの心を汲み取ってくれている匂いがする。

この10年の野球界は確かに激動だった。この先10年の新しい変化が、楽しみでならないが、ビジネスの方を向きつつ、ファンの心をまず忘れないで欲しいと思う。

「はじめに」にあるディケイド、10年の歌は、渡辺美里「10years」が好きです、はい。

筒井康隆「旅のラゴス」

名作とあちこちで紹介されている、SFの旅もの。落ち着いて聡明なラゴスの冒険旅小説。どんな、と訊かれれば、何回か読み直したくなるタイプの作品かな。

ラゴスは南方へ旅をしている。途中壁抜けをする男と出会ったり、巨大な鳥と大蛇のいる国を通ったり、長い間奴隷として働いたりと珍しい体験や苦難を経て目的の街へ辿り着く。彼が感じていた使命とは。

正直どんなものかな、と読んでみたが、SFだけでなくファンタジーのような設定もあり、また近代社会の歴史への警鐘的な部分もあり、さすらい性と知的さ、またハードボイルドの気味がミックスされている感じである。

なによりラゴスが聡明で意思が強く、完璧でいい男なので、安心して読める部分が、意外にこの物語の芯となっている。もちろん無理のある部分もあるな、とは思うが。

1986年、私が19才の時の作品である。筒井作品はあまり読んでないが、そもそもSFの出の人で、それぞれのエピソードにあまりつながりがあるとは言えないが、バタバタせず、ラストにはきちんと畳んだ感がある。

まあ、面白かったかな。

ジェローム・デビッド・サリンジャー
「フラニーとズーイ」村上春樹訳

うーん、難解だった、とか、特徴的だった、とか言うよりは、正直に、つまらなかったと言おう。

ここ最近では村上龍の「歌うクジラ」以来、読み進むのが困難であった。文章の中身が消化できないタイプの、例えが異様に多く機能していない文体である。

60ページ程度の「フラニー」と200ページを超える「ズーイ」から成っている。フラニーは名門女子大に通う二十歳の美しい娘で、ボーイフレンドとのデート中、情緒不安定に陥る。ズーイは彼女の五歳年上の兄で俳優。「ズーイ」の中では、フラニーはその後凹んでいて、家で皆を心配させている、といった設定。映画なんかでもよく目にする、家族風の会話をはさみながらストーリーは進行するが、いい味を出しているかというと疑問である。

数はそんなに多くはないが、そこそこにアメリカの小説を経験した中でも、面白くなかったな。