2011年3月26日土曜日

もひとつ

先日、地震後始めての飲み会があって、私もだが、皆いつもより酔っ払ってハイになっているように見えた。

私は、実は地震後あまり食欲がなく、ちと痩せていた。交通の混乱や買い出しなどバタバタしていた影響だったかと思う。

きょうの晩、冷蔵庫を見てみると、冷凍していない牛肉があったので、これが優先と焼き肉定食に決めた。スーパーでサラダを買ってきて、牛肉を炒めて、焼き肉のタレで味をつける。卵も消費しなければならないので、卵ごはん付き。肉の量が2人前くらいあり、食べ切れるかと心配したが、1合のごはんごとペロリと食べてしまった。この形の焼き肉を自宅で料理するのは初めてである。でも思いつきで出来て、美味かった。いま思い出したが、そういえば浪人生のとき、弁当屋のバイトで作っていたっけ。そうか。

なんか思いつきも当たって、久しぶりにたくさん食べて、少しいい気分である。

きょうスーパーでは、水が売り切れだった。地震直後も思ったが、東京都民はパニックになりすぎではないか?それこそが、いらない社会不安を生んでいる。パニックが生まれると、巨大都市だけに厄介だ。ここで暮らすことが好きになりきれない理由でもある。

ねえ、小さな子供を抱えている家庭は大変なんだ。赤ちゃんは尚更だ。被災地は、もっとだ。もし、危急ではない買い溜めがあるとすれば、いいかげんやめようや。

こぼれ話

いやいや、やはりちょっと感傷浸りモードだったようだ。独り暮らしはお手のもの、余震があっても目醒めないようで、まず快適に暮らしている。いま晩メシのバリエーションを開発中だ。

こぼれ話、幼稚園の卒園式は、練習が出来なかったので、卒園証書授与もぶっつけ本番だったが、園長先生、「まあ去年見てたから出来るでしょう」ここはなぜかパパたちが小声で「んな無茶な」と突っ込んでいた。世に同じような上司は多いのだろうか。

園児からの歌は、おなじみ「1年生になったら」もうひとつは、手話つきの歌だった。「未来の扉を開いて・・♪」の手話の振りと子供たちのキラキラ光る笑顔に感動した。幼稚園が休みになる前から練習していたので、みな上手に出来ていた。ふだん、年長にもなると、歌わされるのにも飽きて、注意力散漫で声も小さかったりするが、手話を取り入れることで、集中させ、さらに演出効果も格段に上がっている。3年の間よく感じたが、さすが50年の幼稚園、行事はお手のもので、研究の後も偲ばれる。

最後は、幼稚園の先生職員が座って並び、園児がそこを通って退場。ひとりづつお別れだった。年長と年中の担任が並んでいたのだが、息子は、年長の担任に「また東京に遊びに来てね」と言われ「もう来ない」と返して先生をびっくりさせていた。まあこれは、なんかわかる。帰り道までも、東京にいたい、と訴えていたし。で、年中の先生が、全員に「大好きよー」と言う方で、息子には「結婚しよう」と言ったものだから、ここで抱きしめられたら結婚しなければならないと思った息子は、列から大きく飛び出して、「やだ」となかなか戻らなかった。「拒否られました〜」と笑い話で終わったけれど、多分ちょっと理解度と感性が成長したんだろうな。

さあ、冷蔵庫の残りものを研究して、ブランチに引き続き晩ご飯も作ろう。当面は、整理洗濯そうじと、やることいっぱいだ。

2011年3月23日水曜日

転機

「転機」という言葉を意識したのはいつだっただろうか。シャーロックホームズの「最後の事件」で、ホームズがワトソンに宛てて書いた、死を覚悟した手紙の中に、「僕の人生は転機を迎えていたのだし、これ以上僕にふさわしい結末はないだろう」という一文があって、妙に衝撃を受けたのを覚えている。春は転機の季節であり、思い出もある。

ここから先はグチだし、弱いが許して欲しい。

幼稚園生活は、良かった。近かったし、先生もみな優しく、行事も多く、3年間同じクラスだから友だちにも恵まれた。ママ友も、パパ友も。穏やかに卒園を迎える予定だった。

小学校は、留守宅のある西宮で通うと決めていた。転勤もぼちぼちだと思っていたし、息子には少々かわいそうだが半年1年で転校するよりは、と準備も進めていた。

地震が起こって、卒園式まであと1週間というところで、幼稚園は休みになった。余震の怖さ、物のなさ、原発などで、周囲の人は次々と首都圏を脱出した。我が家も、引越しはゆっくりとする予定だったが、卒園式前に帰ってしまおうかという話が現実味を帯びていた。

そして19日、卒園式はかなり縮小、そして地震に注意を払いながら、行われた。茶話会も、なし。でもやはり感動した。面接試験前にどんな園か見に行ったころからの月日が思い出された。私もだいぶ送って行った。雨の日も、雪の日も。いい年月だった。

本当なら、たくさんお呼ばれして、ゆっくり皆とお別れしていたはずが、卒園式から2時間と経たないうちに慌しく出発した。それでも3家族が見送りに来てくれた。

私の転勤は、無かった。単身赴任である。ともあれ引越しはしなければならないため、車に全員が乗って移動した。車に慣れていないクッキーが吐いたりしたがまあ想定内。途中渋滞につかまって、着いたのは深夜だった。翌日から、片付けたり、ママを休ませるために息子を長い散歩に連れ出したり、自分の用事を済ませたりして、きょう帰って来た。迎えてくれたのは、なにもない部屋、に思えた。

慌しく出たために、家の中はそのままの部分が多かった。息子のおもちゃやバッグ、カレンダーやシール、風呂で一緒に覚えたひらがなの表、幼稚園の制服・・しかし、そこにはなにもない。毎日同じ布団に寝ていた息子が居ない。幼稚園での日々とともに消え失せたようだ。世に同じ境遇のお父さんは普通にいるだろうが、早くもくじけそうだ。「東京に行って土曜日には戻ってくる?」なんとなく感づいている息子が訊いてくるのが痛かった。

ここからしばらく、頑張らなければならない。覇気はある。負けない気概ももっている。ただ、いまは、少々落ち込むのを自分に許して、正直にいたいのだ。関西に行きたくない、と言った息子に、これが転機なんだから前に進もう、と言った手前、頑張らなければ・・

2011年3月22日火曜日

記録と想い

まずは、今回の地震、津波による災害で亡くなられた方に心から哀悼の念を表したい。また、1人でも多くの人が救い出されて欲しい。本当に、心から。

11日は、都内10Fのオフィスで地震に遭った。私は阪神大震災を経験しているが、あのときはなにせ起きぬけで、激しい揺れの時間も、今回はかなり長かったと思う。しかも2回。怖かった。会議室の屋根板が一部曲がってはみ出していた。家族も無事で、ほっとした。深夜まで会社にいて、地下鉄が動き出したところで帰り、1時半ごろ家に着いた。仲のいいお隣も今夜女所帯ということで、2階に2家族寝ていた。朝また大きな地震があり、眠れなかった。

土日と買い出しに行ったが、街もスーパーも落ち着いているように見えるものの、一番近いスーパーは、パンは売り切れ、カップめんのたぐいはひとつもなし、卵もなし、ポテチなどのお菓子類もほぼなし、トイレットペーパーもなし。食品が無いわけではないし、他のスーパーを回ってだいたいのものは買えたが、やはり不安な心理は皆の心にあるようだ。

阪神のときは、電気は思いのほか早く復旧したものの、水道は1カ月、ガスは3カ月止まったままだった。経験から言って、被災生活は長い。なんとか少しづつでも良くなっていくことを願いたい。

計画停電の話が出て、月曜日は1時間遅れて出社した。帰りも渋谷で大混乱していたので、5キロ1時間だからと歩いて帰った。翌日から朝は1時間ほど早く出て、帰りもいつもと別ルートにしている。30分歩くが、いつどうなるかわからないからだ。バスも一部燃料不足で突然運休になったりした。

原発のこともあり、余震も怖い。息子とクッキーは大物なのか、余震があってもぐーぐー寝ている。ちょっと救われるが、昼間も目と手の届くところに置いておかないと気が休まらない。

アップは出来なかったが、先週書き溜めていたものを本日上げた。自分の貴重な記録なので、タイムラグはあるが残しておくことにする。写真は息子が地震前にたまたま撮っていた日本地図である。深い意味はない。

2011年3月7日月曜日

徒然

前の記事の写真は、近所にある梅林で、いつもきれいに、一斉に咲く。私は春を待つ、梅と梅の季節が好きで、犬の散歩中に、つい足を止めて観てしまう。今年も三寒四温を繰り返しながら春に向かう季節となった。

さて、金曜から体調が悪く、風邪の引き始めのような感じだった。妻が妊娠してからというもの、私はほとんど風邪を引かなくなった。1年に一度くらい、手前までは行くのだが、たいていは週末に頭が重くなって、「来た」と思ったらそれなりの対応をして治してしまう。この5年で1日だけ寝込んだが、アイスノンで強制的に熱を下げ、翌日は普通に過ごしていた。今回もさむけがしたので出来るだけ温かくして、土日とも午前は休養に充てた。・・きょうは息子が寝かせてくれなかったが(笑)。日中暖かく気持ちよく、イベントの日でもなくてうまく回復した。ただ、いまちょっと喉が痛く、扁桃腺は熱を呼ぶ場合もあるので引続き注意だ。まあ熱が出たら抗生物質を飲むだけだ。風邪はすべからく早めの手当て。さっさと治す、が信条である。きょうはこんなところで。