2020年10月18日日曜日

10月書評の2





今年も田んぼぎわの同じところに咲いたツリガネニンジン。小さい可愛い花。秋は、実のなる植物も多いせいか、成熟した緑の匂いが濃い。

◼️司馬遷「史記」


項羽と劉邦を初めて概観。鴻門の会、四面楚歌、面白かった^_^ うーん、キングダム。


最近まで古代中国史は苦手で、実は三国志も読んだことなくて、あれ、項羽と劉邦って三国志じゃなかったの?という状態だった。実は史記も、漢籍を読みたかっただけで中身を考えてたわけではなく、項羽と劉邦のくだりにゆくりなくも出逢えてワクワク。やっと自分も世間並みになったかと(笑)。ここ数年で三国志も漢詩もそれなりに読んで、少しずつ分かるようになっていってるのが楽しい。


膨大な「史記」の中から、


◇伍子胥(ごししょ)列伝

・・春秋戦国時代末期、楚の人伍子胥の伝記。

◇魏公子列伝

・・「戦国四君」のうちの信陵君・魏無忌が主人公。孟嘗君、平原君、春申君にも触れられる。

◇項羽本紀など

・・始皇帝の死、項羽と劉邦。


が取り上げてある。故事成語も、漢文の授業で聞いたのも多く出てきてちょびっと感慨無量。


前の2つも興味深いが、なんといっても3つめの項羽と劉邦だった。


一瞬天下統一を成し遂げた秦の始皇帝が崩御する。すると陳勝・呉広の乱が起き、時代はさらに動くー。


「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」

「王侯将相寧ぞ種有らんや」


どちらも陳勝の言葉。習いましたね。たしか。この乱はすぐに平定されますが、秦は大河の流れに呑まれるように崩壊の道を歩みます。


楚の将軍の家柄に連なる項羽、戦にあたっては残虐、しかし名門の出だからかどこか甘さがある人柄。参謀は老体の范増。


母の上に龍が現れ、その後身ごもったとの伝説を持つ、農民出身の劉邦。沛公とも呼ばれる。蕭何、曹参、張良、樊噲という有能な部下を持つ。


どちらも楚の懐王に仕え、軍を率いて戦果を挙げる。懐王は「真っ先に関中に入って平定した者を関中の王にする」と宣言する。


関中へは劉邦が先に入った。後から来た上将軍項羽は、劉邦軍の4倍の兵力。項羽の策士、范増は、今のうちに劉邦を殺せ、と進言する。2人は鴻門で酒席を囲む事になった。


范増に言い含められた項羽の従兄弟、項荘が劉邦を殺す意図を持って剣舞をする。すると張良に恩のある項羽の伯父、項伯もまた舞いながら巧みに劉邦をかばう。劉邦の身が危険と聞かされた勇猛の士、樊噲は座に押し入り、項羽を睨みつける。項羽は樊噲に酒を振舞った。やがてトイレに行くふりをして劉邦はしれっと逃げた。范増は項羽の甘さをなげく。 


やがて両者は相争う。形成は劉邦に傾き、追い詰められた項羽は垓下に籠城する。幾重にも包囲した劉邦の漢軍が楚の歌を歌うのを聴き、漢は楚を手中にしたかと驚く。〜四面楚歌〜そして我が身の末路の詩を作って歌い、寵愛していた虞美人をはじめとする側近たちとともに涙を流したー。


項羽は奮戦の末自害、劉邦はやがて前漢の初代皇帝となる。


どこの史書でもそうだろうが、「史記」にも物語性と誇張があるだろう。でも、鴻門の会のところは緊迫感が漂ってくるようで面白く読めた。決めどころもあるべし。樊噲がオトコマエだ。立場が強いはずの項羽の言動が、ここではちょっと分からなくなる。劉邦を手にかけるどころかあっさり逃すし。うーん。


秦のイメージは、焚書坑儒の理不尽。史記にも細かすぎる法律を作り、人民を厳しく管理したためす反発も強かったとある。手下に厚い、人民に優しい沛公は関中の人々に好かれる。器ですな〜。


故事成語や言い回しもたくさん。上に挙げたもののほか、


故郷に錦を飾る、呉越同舟、尸に鞭うつ、会稽の恥、臥薪嘗胆、囊中の錐、清少納言が百人一首で詠んだ歌に盛り込まれている鶏鳴狗盗、樊噲が項羽を睨みつけながら言う、


「卮酒安んぞ辞するに足らんや」豪快な樊噲、いいねー。


そして項羽の終わり近くの歌は英雄が消えゆく前。少し胸にくる。


楽しく弱点を少し克服できたぞん。キングダム、読もうかな。




◼️北村薫「詩歌の待ち伏せ  2


文学・文芸の愉しみ。やっぱこれくらいマニアックでなくちゃ。


北村薫が心に引っかかった言葉を探索していくシリーズ。知らない名前が普通に出てくるし、世界も含めた文学の深い知識が当たり前にベースになってたりするが、サラサラ読むのが快適だったりする。とても北村薫らしい。


「三国志物語」、星落秋風五丈原の場面に「風更けて」という表現が出てくる。はて、秋更けてとか夜更けてなら分かるが風更けて、とはどういうことかと探究していく。


和歌の例を探し、藤原定家の


さ筵や待つ夜の秋の風更けて

月を片敷く宇治の橋姫


という歌を発見、さらに多くの類例から発祥のあたり、また流行りというものを掴んでいく。そういえば北海道に音更町、というのがあったなと。なかなか楽しいことばへのこだわり。


江隈順子さんという方の俳句に


卒業歌 あの先生が 泣いてはる


という句の「泣いてはる」という関西弁に通常の卒業式のそれとは違う、柔らかな空気に辺りが包まれると感じ、男子が見ているのか、女生徒か、対象の先生はどんな先生かに思いを巡らせる。


関西人の有栖川有栖氏に電話して確かめたりするが、女性言葉でもなく、敬語の意味合いはより弱いと知らされ、虚を突かれる。


実は九州育ち関西在住の私も、著者と同じように感じ取ったのだが・・まだエセ関西人なのかな〜。この項、短いとはいえ前巻で芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は何ゼミで何匹か、と同じシチュエーションで楽しめた。ちなみに、蝉は、友人とひとしきり話題の種にした。


詩歌探索の旅は高知の詩人、大川宣純や「風と共に去りぬ」のタイトルのもと、アウネスト・ダウスンらへと続く。阪急ブレーブスのサブマリン、私も大好きだった山田久志の俳句や、江戸川乱歩も面白い。


「さよならを言うのはわずかのあいだ死ぬことだ」


レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」でフィリップ・マーロウが口にする名セリフ。もともとはフランス詩人アロオクールの書いた、フランスではかなり有名な一節だとか。


「トゥ・セイ・グッバイ・イズ・トゥ・ダイ・ア・リトル」

To  say  good-bye  is  die  a  little.


フランス語では

「パルティール・セ・ムーリール・アン・プー」

Partir,  c'est  mourir  un  peu


について掘っていく。アガサ・クリスティーでも使われていたことが発覚するなど、なかなか楽しい。また後段、読者からの手紙で、コール・ポーター作詞作曲のジャズ・ナンバーに、


Ev'rytime  we  say  goodbye  

I  die  a  little.


という歌詞があることが分かる。おそらくアロオクールの詩句を踏まえていて、チャンドラーも聴いたであろう、と結論づけている。集中でも好みのつながりだった。


知らない文人もかなり多く出てくるが、取り上げられた詩句はいずれも新鮮で、サラサラと読んでじんわりと沁みる感じ。3もあるみたいなのでぜひ読みたく。

10月書評の1




10月6日は火星の最接近。準大接近らしい。2年前の大接近時は赤い火星が大阪湾にこぼれ落ちてきそうだったが、今年はそこまでないような。


◼️瀬尾まいこ「天国はまだ遠く」


筆者赴任、実体験の丹後もの。内向?


「卵の緒」「図書館の神様」に続く3作め。当時著者は中学校の教員をしながら作家活動をしていて丹後地方、京都の日本海側、日本三景の一つ天の橋立がある側、へ赴任、その時の体験をもとにした話とのこと。映画化されてたのね、知らんかった。



仕事に疲れ果て、自殺を決意した23歳の「私」は電車で北に向かい、丹後地方の駅からタクシーに乗って山奥にある「民宿 たむら」に辿り着く。貯めこんでいた医師処方の睡眠薬を一気に飲んで寝るが、1日眠っていただけで爽快に起きてしまい、死ぬ気をなくすー。


長逗留することにした主人公は農作物を育て家畜を飼う田村のもと、のんびりと過ごす。そして・・。


瀬尾まいこをセオマイコーと呼ぶと競馬馬みたいで妙に気に入っている。セオマイコーものはいつも何かを思わせる。


おおざっぱに書くと、仕事と環境に疲れた主人公が人けのないところで死のうと田舎に行くが、幼いとも言える認識のためそのまま生きる。自然と人の温もりで癒され、再生していくー。


こんな簡単な図式が描けてしまう。まあ名作ほど筋はシンプルだったりするが、瀬尾まいこの場合は語り口がとても平明なこともあり、より図式っぽく見えないことはない。


正直成り行きとしてはこの図式を出るものではなかったが、ただセオマイコーはそれで終わらず、なにか読み手を吸い寄せるものを持っている。


会社は辞めてしまったから憂いはない。

彼氏にはメールを送ったけど自然消滅状態なので忘れていた。


うーん、ふつうはこのへん絡むんだけど。思い込んでいた恋愛に破れて、とか、あと人間関係の禍根とか、隠された暗い過去とか癖とかないのってくらい穏やかだ。彼氏と自然消滅、というのは逆に新鮮なくらい。


田村とは同じ屋根の下2人暮しだけども・・ふむふむ、なんか感じさせるものはあるが、それ以上なし。


セオマイコーの小説に登場する主人公の女子は、さっぱりしていて、無理がない。色気もないが、不思議といい感じに落ちている。ちょっと今回は幼いかな。あと内向的。でも若いころというのは、今からでは信じられないほど無邪気なもの。そういう思いをくすぐられたりもする。


この話は、微妙なところ、また実体験を散りばめた物語だろう。ダイナミックでは全くなく波がない。しかし体験、取材というタネがあって、細かいクセをつけて小説にしていくところはうまいなあ、と。


まだまだデビュー作も、「幸福な食卓」も「戸村飯店 青春100連発」も、もちろん「そして、バトンは渡された」も読むぞっと。



◼️童門冬二「小説 上杉鷹山」


米沢藩に伝わる「伝国の辞」はケネディに感銘を与えた。目先でない改革、その源の思想は、新しかった。



恥ずかしながら、上杉鷹山(治憲)の名前は知っていたけど、何をした人か、詳しいことは知らなかった。「伝国の辞」は鷹山が代を譲る際、新藩主に心得として示した三条。


一、国家(米沢藩)は、先祖から子孫に伝えられるもので、決して私すべきものではないこと

一、人民は国家に属するもので、決して私してはならないこと

一、国家人民のために立ちたる君(藩主)であって、君のために人民があるのではないこと


内村鑑三の小説の英訳をJ.F.ケネディが読んだらしく、鷹山の名を出して尊敬する日本人と名を挙げた。しかし聞いた日本人記者は誰のことか分からなかったとか。



九州の三万石の小大名だった治憲は、養子縁組で米沢藩の藩主となる。米沢藩は財政破綻の危機に陥っていた。治憲は藩政のために直言しすぎて冷や飯を食わされている者を集め、改革案を作らせるー。


やがて虚礼やしきたり、行事の中止、廃止、倹約などを旨とした改革案が出来上がる。さらに治憲は、鯉を養殖し、紅花、桑などを栽培、また地元ならではの名産物を育てるなど、新たな産業を考え出す。武士やその家族にも働くことを奨励した。


しかし従来の政策、しきたりを重んじる藩の重役たちが反発、米沢を知らない養子藩主ということもあり、改革をあからさまに妨害しようとし、遂には七家騒動と呼ばれる造反劇に発展する。


上記のように、治憲は藩民のためにこそ政治があるとして、武士を戒めた。武士の既得権益が定着している江戸中期、全国でも珍しい方針だったという。また、田沼意次の賄賂政治から松平定信の寛政の改革の時期とかぶるのも面白い。柔軟性と徳があった治憲に比べ、節約倹約だけを旨とした厳しい改革はうまくいかなかった。


途中ジンとさせられた場面もあった。最初はやはり急激すぎてうまくいかないかも、と読んでて思ったが、治憲のガマン、柔らかさ、必要なことを生み出していく強さ、人間力には感嘆した。


童門冬二さんは東京都知事秘書などを歴任した方で、治憲の政策を何度も現代のビジネスになぞらえたまとめをしているので、分かりやすく、活力をもらえるように感じた。


少し冗長で、どこが芯なのかよくわからない部分もいくつかあった。正直。でも、改革とつきあうならとことん。厳しい局面も、うまくいかないことも、危機もあるというのは説得力がある。掛け声だけでは、ということかなと。


示唆に富んでいて楽しく読めました。


9月書評の6




9月は12作品12冊。穏やかな感じ。シェイクスピア詩集は今後のためになった。もうすぐ「ナイル殺人事件の封切り。楽しみだ〜。

◼️アガサ・クリスティー「ナイルに死す」


アガサの色、往時のミステリの雰囲気、トリック・・なぜこんなに面白いー?名作を堪能する。


分厚いけれども、あっという間に引き込まれ、ザクザクと読み進む。やはりアガサ・クリスティーは稀有な作家、現在に至るまで、ミステリ界でひときわ明るい星だ。


最近「オリエント急行の殺人」の映画がリメイクされ、そのシリーズでもうすぐ「ナイル殺人事件」が公開されるというので先に耽読。


1937年の作品で舞台は大部分がエジプト・ナイル川を航行する船の上。船室、船の構造を使った展開は「オリエント急行」に似ていて、ミステリ好きの心を刺激する。


大金持ちの一族で、美貌とビジネスの手腕までも併せ持つリネット・リッジウェイは親友ジャクリーン・ド・ベルフォールの恋人サイモン・ドイルを奪い結婚、新婚旅行でエジプトへ赴く。ところが傷心のジャクリーンが2人につきまとう。当地にはエルキュール・ポワロも休暇旅行で訪れており、リネットから相談を受け、ジャクリーンを諭すがジャクリーンは忠告を聞かず、ポワロに自分の小型拳銃を見せる。


ナイル川のクルーズの夜、酔ったジャクリーンはサイモンの脚に発砲して怪我を負わせる。そして翌朝、リネットが射殺体で発見されたー。


船にはラブ・アフェアの当事者のみならず、リネットのアメリカでの財産管理人やイギリスの弁護士、ドイツの医師、リネットの友人の従兄弟親子、女流作家と娘、老婦人と従姉妹の娘と看護師、考古学者と社会主義者などが乗り合わせる。さらに逃亡中の危険な殺人犯も乗り込んでいるという。第23の殺人、高額な宝石の窃盗と、事件は複雑な様相を見せる。犯人は誰なのか・・。


多くの登場人物を絡めた本格推理もので、非常に楽しく読み進めることができた。


アガサの魅力は色々ある。今回で言えば、大富豪で美人、完璧な女を中心にした、目を惹く設定であること、だからこそ陰謀がうごめく印象を強く与えること、本筋ばかりでなく、随所にロマンスが生まれること。


さらに陸を離れた乗り物という限定された舞台での犯罪、綱渡りのように行動し潜む犯人のサスペンス感、盛り上げ、後半に畳み掛けるように事件が起こり、一見ごちゃごちゃした状況をほどいていく鋭敏さ、スマートさ。


そしてやはりポワロそのものの魅力を挙げないわけにはいかない。気取ったベルギー人。しかしその言動は時に詩的で示唆に富む。その実事件の本質を衝く、一風変わった恰好よさ。その存在感は心地いい。



今回用いられたトリックそのものは、現代の目で見ると、用意周到すぎるし、そこまで目新しいものではない気がする。特にびっくりする場面もない。そういう意味では時代感も感じる。


しかし、この物語、この舞台、ロマンスと陰謀が多い話の流れにはマッチしていて、無理なく流れるような気がしている。映画用の話としてはバッチリで、この上に目を剥くようなトリックとなると、少々過剰かもと思う。


ただそうは言ってもやはり登場人物たちの言動や観察から、ぼんやりと読み手が思っていたことが、最後の整然とした謎解きでピタピタとはまっていくのは見事。


ケネス・ブラナーでより魅力的にドレスアップされるはずの新しい映画が楽しみだ。



ヨーロッパから見ればまだ植民地があり、移動といえば列車と船の頃、時代特有のエキゾチックな感覚。




◼️アンナ・キャサリン・グリーン

    「霧の中の館」


作品に触れて楽しむ、アメリカ推理小説の母。ドキドキの展開。


書評を読んで、初めて知る人の小粋とされる短編集を読むのが最近の楽しみ。アンナ・キャサリン・グリーンは1878年の長編、「リーヴェンワース事件」が出世作となったベストセラー作家さん。ポーがアメリカ推理小説の父ならば、アンナ・キャサリンは母だとか。ほお、知らなかった。


◇「深夜、ビーチャム通りにて」

ビーチャム通りの一番端の家に住む新婚の妻レティは吹雪のクリスマスイブの夜、夫の出張で家に独りで取り残される。しかも、家には夫が持ち帰ってきた社用の大金が。そして家には次から次へと暴漢が入ってくるー。


まだ電気のない時代で、猛吹雪だけでも1人はいやなのに、夜にしかも大金がある。ミステリーというよりは短編サスペンス。終わりがシンプルだが、この後どうするんだろうなどと思ってしまう。


夫が馬でフェアバンクスに出張というのに時代感。フェアバンクスはアラスカので間違いないのかな。そりゃ遠いし寒い。


入り込んできた男は図々しくいやらしい。可愛いレティを心配していると、そこに第2の男。救世主か悪魔か?そこから解決まで早いし小技も効いている。


◇「霧の中の館」

霧の深い寒い晩、宿を求めて彷徨っていた旅の男は大きな館に辿り着き、入れてもらうが、そこでは裕福な当主の遺言の申し渡しのため、欲に駆られた親族が集まってきていた。


男は、自分は受け取る資格がないと辞退して出た女・ユーニスを探しに行く。2人は出逢い、食糧を調達に館に戻ると、まさに遺言執行の場面。驚くべき事態に・・。


途中明らかにネタばらしまでと焦らしだなという描き方があった。伸ばして引っ張って・・なかなか凄惨な場面に。最後はちょっとしたハッピーエンド。これもサスペンス型の小説。



◇「ハートデライト館の階段」


金持ちが次々と溺死する事件が起きた。賭け事の借金で首が回らなくなっていた若者は質屋に行き、大金を作ってくれる人物を紹介され、父親が死んだら借金を返済するという誓約を記した架空の借用証にサインさせられる。怖くなった若者は父の紹介で警察幹部に相談に行った。


老刑事が駆け出しの頃を振り返る構成。仕掛けとしてはまあ面白い。ラストは館もの的な解決となむている。



◇「消え失せたページ13


晩餐会の食事のあと別室で火薬産業ビジネスに関する書類を確認していた発明家のスピールハーゲン氏が、誤って薬の入った飲み物を供されて眠り込む。気がつくと書類の13ページめ、肝心の調合法明細だけが失くなっていた。


関係者全員の身体検査では見つからず、密室の中で消えてなくなったとしか思われない。その書類は翌朝早くヨーロッパへ向けて出航する船に持参することになっていた。深夜呼ばれたバイオレット・ストレンジはパーティー会場からイブニングドレス姿で駆けつけ、ヴァン・ブルックリン邸の因縁にまつわる、開かずの扉の向こうへと探索に出る。


お嬢様探偵、バイオレット・ストレンジ登場。150年以上も前なのに、イブニングドレス姿で駆けつけるコスプレぽい演出。これも本格館ものの系統だった、バイオレットは実直で、話し方が端正、汚れ仕事に怯まず独自の捜査。ホームズものを思い出させる。


さて、館でバイオレットを迎えたのは恋人、ロジャー・アップジョン。ロジャーは次の篇にも登場する。


◇「バイオレット自身の事件」


事件の話ではなく、バイオレットから恋人ロジャーへの打明け話。なぜバイオレットは探偵稼業でお金を稼いでいるのか、手紙という形でその身の上が明かされる。


実は、これが一番読みやすく、筋道だった話だった。辛い内容ではあるものの、不穏な場面、雰囲気がないからかな。


お嬢様探偵ヴァイオレット・ストレンジについてヴァン・ダインは、誰が最も優秀な女性探偵かについて、もっともチャーミングで有能で、同時に、もっとも、適切に工夫されている、と評している。確かにもう少し読みたい。日本語訳も少ないそうだが、探して読みたい。


アンナ・キャサリン・グリーンは売れっ子作家となったが1900年代初頭、アメリカ文学が純アメリカ英語、口語体で書かれるようになると、イギリス英語風、フォーマル体、婉曲的文体のグリーン作品の人気には翳りが忍び寄った。この社会的現象も興味深い。


館ものの、屋内の描写がちょっと頭に入ってきにくい書き方の作品もあり、手ばなしで感心したわけではない。が、時代がホームズに近く、ガス燈に馬の、当時の雰囲気が察せられて、読み手として気持ちがいいかも。作品はもう少し読みたいかな、と思わせる。


それにしても、1800年代後半から科学、芸術など、様々な動きが欧米で爆発している。アンナも時代が生んだ女流作家、というものだろうか。






◼️「シェイクスピア詩集」


旅路の果ては、恋人たちのめぐり逢い。

やっぱこの言葉が一番好きかな、今のところ。


シェイクスピアのソネット集より抜粋、また劇中歌特集やシェイクスピアの長編物語詩「ヴィーナスとアドーニス」、「ルークリース」から印象的な部分を抜いてある。英語原文と訳、ページ下部の脚注も嬉しい。


ソネットとは十四行詩のことで、韻を踏むルールがあるそう。シェイクスピアの劇の台本は韻文で書かれており、だから、当時の劇作家たちは、なによりも詩人であらねばならなかったらしい。


ちなみにさだまさし「道化師のソネット」も・・十四行になってた!


ではいくつか。


◇ソネット集(18)

「君を夏の一日と比べてみようか?

だが君のほうがずっと美しく、もっと温和だ。

五月には強い風が可憐な花のつぼみを揺らすし

夏はあまりにも短いいのちしかない」


集中最も有名というソネットの書き出し。夏は過ぎ去るが、君の輝きはこの詩に永久に生き続ける、といった意味だろうか。


シェイクスピアのソネットでは最初からしばらく恋人の美しさを礼賛しているのだが、それは女性でなくて青年であることに大きな特徴がある。当時としては大胆な設定だったらしい。


◇(73)


「死の分身である黒い夜が奪ってしまう。」


語感だけでチョイス。夜は昼の死、という考え方があったという。(18)にもあるように、夜は輝きや光と対になる存在のようだ。


◇(130)


「白状するが、ぼくは女神が歩くのを見たことがない。

でも、ぼくの女は、歩くときには地面に足をつけている。

とはいえ、ぼくが愛するその人は稀有の人だと思う、

いい加減な比喩で表現されているどんな女性と比べても。」


さて、後半は賛美の対象が女性となる。その女性は黒髪に黒い瞳をした、いわゆるbrunetteブルネットの女性とされている。詩の中でシェイクスピアは金髪blondeが正統と読める表現があり、含む意が感じられる。その間に入れ込んでいるものが心のどこかに響く、シェイクスピアらしい気がする。

 

なんか面白い。劇中歌を一つだけ。


◇十二夜


Journeys  end  in  lovers  meeting.

旅の終わりには恋する同士が結ばれるのだ。


このセリフ、シャーロック・ホームズでも引用されている。モリアーティ教授と格闘の末滝壺に落ち、死んだと思われていたホームズが実は生き延び、3年間の空白を経てベイカー街の部屋へ戻ってきたのが「空き家の冒険」。自分の命を狙ったモラン大佐を捕まえた時、


「やあ大佐、旅路の果ては、恋人たちのめぐり逢い、なんて昔の芝居のセリフじゃないが、久しぶり。」


と声をかける。ホームズも粋だが、言葉そのものがロマンティックで恰好いい。


この巻には出てこないけれども、私がシェイクスピアを読むきっかけとなった「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ17巻に出てきた言葉は書き留めてある。



「ああ、 歓び以外の思いは、すべて空に消えてゆく。数々の疑惑も、先走った絶望も、ぞっとするような不安も、緑色の目をした嫉妬も」(ヴェニスの商人)


「きれいなきたない、きたないはきれい」

(マクベス)


「愚か者ほど自分を賢いと思い込む。そして賢者は、自分を愚か者だと思う」

(お気に召すまま)


劇の脚本と、詩そのものとを比べると、シェイクスピアはそれぞれテイストが違うようだ。私的には、どちらかというと劇の方が好きかな。



9月書評の5




最近溜めてしまうな〜。すっかり10月ももう下旬に入ろうかというところ。11月に台風が上陸したことは過去1回しかないそうで、あと10日ちょっとで台風シーズンは終わり。上陸0回という年になるかな。関西的には穏やかな秋。


◼️「シェイクスピア詩集」


旅路の果ては、恋人たちのめぐり逢い。

やっぱこの言葉が一番好きかな、今のところ。


シェイクスピアのソネット集より抜粋、また劇中歌特集やシェイクスピアの長編物語詩「ヴィーナスとアドーニス」、「ルークリース」から印象的な部分を抜いてある。英語原文と訳、ページ下部の脚注も嬉しい。


ソネットとは十四行詩のことで、韻を踏むルールがあるそう。シェイクスピアの劇の台本は韻文で書かれており、だから、当時の劇作家たちは、なによりも詩人であらねばならなかったらしい。


ちなみにさだまさし「道化師のソネット」も・・十四行になってた!


ではいくつか。


◇ソネット集(18)

「君を夏の一日と比べてみようか?

だが君のほうがずっと美しく、もっと温和だ。

五月には強い風が可憐な花のつぼみを揺らすし

夏はあまりにも短いいのちしかない」


集中最も有名というソネットの書き出し。夏は過ぎ去るが、君の輝きはこの詩に永久に生き続ける、といった意味だろうか。


シェイクスピアのソネットでは最初からしばらく恋人の美しさを礼賛しているのだが、それは女性でなくて青年であることに大きな特徴がある。当時としては大胆な設定だったらしい。


◇(73)


「死の分身である黒い夜が奪ってしまう。」


語感だけでチョイス。夜は昼の死、という考え方があったという。(18)にもあるように、夜は輝きや光と対になる存在のようだ。


◇(130)


「白状するが、ぼくは女神が歩くのを見たことがない。

でも、ぼくの女は、歩くときには地面に足をつけている。

とはいえ、ぼくが愛するその人は稀有の人だと思う、

いい加減な比喩で表現されているどんな女性と比べても。」


さて、後半は賛美の対象が女性となる。その女性は黒髪に黒い瞳をした、いわゆるbrunetteブルネットの女性とされている。詩の中でシェイクスピアは金髪blondeが正統と読める表現があり、含む意が感じられる。その間に入れ込んでいるものが心のどこかに響く、シェイクスピアらしい気がする。

 

なんか面白い。劇中歌を一つだけ。


◇十二夜


Journeys  end  in  lovers  meeting.

旅の終わりには恋する同士が結ばれるのだ。


このセリフ、シャーロック・ホームズでも引用されている。モリアーティ教授と格闘の末滝壺に落ち、死んだと思われていたホームズが実は生き延び、3年間の空白を経てベイカー街の部屋へ戻ってきたのが「空き家の冒険」。自分の命を狙ったモラン大佐を捕まえた時、


「やあ大佐、旅路の果ては、恋人たちのめぐり逢い、なんて昔の芝居のセリフじゃないが、久しぶり。」


と声をかける。ホームズも粋だが、言葉そのものがロマンティックで恰好いい。


この巻には出てこないけれども、私がシェイクスピアを読むきっかけとなった「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ17巻に出てきた言葉は書き留めてある。



「ああ、 歓び以外の思いは、すべて空に消えてゆく。数々の疑惑も、先走った絶望も、ぞっとするような不安も、緑色の目をした嫉妬も」(ヴェニスの商人)


「きれいなきたない、きたないはきれい」

(マクベス)


「愚か者ほど自分を賢いと思い込む。そして賢者は、自分を愚か者だと思う」

(お気に召すまま)


劇の脚本と、詩そのものとを比べると、シェイクスピアはそれぞれテイストが違うようだ。私的には、どちらかというと劇の方が好きかな。



◼️谷崎潤一郎「蓼食う虫」


大谷崎、作風の転換点の一つとされる作品。ヘミングウェイ「陽はまた昇る」を思い出したな。


先日地元の谷崎潤一郎記念館を訪れた時に買ってきた。「細雪」のあとがきで著者が自薦していた作品の一つ。「刺青」なと耽美的、また悪魔的?などと言われた谷崎が関東大震災を機に関西へ移り住み、上方演芸の文化に触れ、作風が変わったとされているとか。人形浄瑠璃、長唄などの他、大正の風俗をふんだんに織り込んでいる。


<イントロダクション>

親が遺した資産で裕福に暮らしている斬波要と美佐子。2人は夫婦関係に行き詰りを感じており、美佐子は愛人・阿曾の元に通うのを隠さず、要もそれを認めていた。別離を美佐子と話し合ってはいるものの、夫婦ともにズルズルと決められない。要は道楽好きの美佐子の父に付き合い、淡路島へ演芸見物の旅へと赴く。義父が囲っている若い女との3人旅だった。



やはり真ん中の淡路島人形浄瑠璃イベントに目を惹かれる。のどかで、家族連れが色とりどりの弁当広げて、ガヤありケンカあり、地元の人々が楽しむ一大イベント。のどかさばかりでなく、演し物や演芸に対する深い知識と愛着が垣間見える。人形と一緒に映った写真をたしか記念館で見た。


まったく被ってなくて意味合いも違うが、ヘミングウェイ「陽はまた昇る」のスペインの牛追い祭のシーンを思い出す。前後の、パッとしない恋愛関係、一時大戦後のニヒリズムの中、この祭は生命のエネルギーの象徴のように思えた。だからデカダンもより際立っていた。


前段後段は夫婦2人の奇妙な関係性、妻の愛人が須磨に住んでいることまで知ってて、行ってきたら、みたいなことを言う。一方で要はなじみの外国人娼婦のところへ通っている。しかし美佐子は要の着物の脱ぎ着も手伝うし、なにもしないけれども寝室も一緒。別れは決めているのにグズグズとしている。その冷たさと、なんともいえずうまくいかない感情、ちょっと意固地さも見えるのが主題か。確かに耽美ではないし、魔界の匂いもしない。


旅から帰り、義父が娘の美佐子を連れて南禅寺の瓢亭へ。「細雪」を思い出す。


なかなかこの作品の良さをスカッと言ってしまうことは難しいのだが、美佐子のすれた美しさ、義父の囲っているお久の従順でいくぶん幼さの残る魅力、色彩感、リズム感などが織り込まれている。要が読んでいるアラビアン・ナイトもなにやら意味深だ。


ふむふむ、同じく転換点とされている「卍」はどうなんだろう。