寒暖の差が激しかったからか、妻が風邪で倒れる。最高で38.9度。急いで買い物して帰る。するとある朝息子が寒気と頭痛。37.8度でその日は寒の戻りの日だから即休みを決断。で、会社行ったんだけど、39.4度まで上がったと。帰って看病してやる。なかなか体温が下がらないと救急病院に行ったらインフルエンザだって。
◼️夏目漱石「吾輩は猫である」
コミカルさ、時代の反映、書生の学と性質。書きっぷりが現代に与えている影響が見える気がした。
ここ数年文豪ものを少しずつ読んでいるが、巨匠夏目漱石については、老後の楽しみとばかりあまり読んでなかった。「わが猫」人生初の通読。長かった。
子猫の時分、教師の苦沙弥先生宅に飼われることとなった猫・吾輩。近所の事業家金田家の娘を巡るいざこざ、家に入った泥棒などの騒動を体験する。
苦沙弥先生はもちろん、金田、その妻の鼻子(猫がつけた名前)、その娘富子、先生の細君、住み込みのおさん、3人の小さな娘に、先生の姪っ子雪江などを猫のクールな目線から面白く描く。がらっぱちの黒、早逝してしまうガールフレンドの三毛子との会話も面白い。隣接する学校の生徒が野球のボールをしじゅう先生宅に打ち込み、先生が度重なる侵入に怒るという、なんかサザエさんみたいな展開になるのもにぎやかし。
後段は先生宅に出入りする、自称美学者の迷亭、物理学者の寒月、哲人独仙、昔の書生で鹿児島生出身の三平らが自分の考え方を述べる。これが長くて衒学的。うーんといったところである。まあストーリー的小説ではないな。
読んでみて感じたのは、現代に至るまでのさまざまな影響。(ではないかと私が勝手に思ってるだけだが)
先だって内田百閒「第二阿房列車」を読んだが、さすが門弟、書いている中身は違うのだが、テンポというか、文調というか、呑気で上から目線でだらだらしているところが似ているな、と感じてしまった。
やたらそもそも、と人間世界の行動や形式に理屈が多いところは森見登美彦を連想したし、登場人物の話し方には夏目漱石の著作をよく読みすぎたために口調までそれっぽい「神様のカルテ」主人公の栗原一止を思い出した。息子がアニメをよく見ている「銀魂」にすら、どこか似ているかなと感じてしまう。
解説によれば、夏目漱石は正岡子規の文集の批評を漢文で書き、房州への旅行記を漢文と漢詩で書いたと言う。なるほどと言うか、作中に出てくる古典の例えや熟語が漢籍っぽくて、難しくてさっぱり分からない(笑)。
衒学的な筆致もここまでいくとすごいな、というくらい博識であると思う。
明治38年の作品で、作品の設定は日露戦争中であるらしい。最近の若者は、というくらい言葉はローマ時代からあるらしいが、作中で展開されている社会の風潮に対する痛烈な批判は、現代にも通じるものがある。
私など漱石にうとい者がどうこういうのもなんですが、読み進むのに難があったりするが、やはりなんらかの力を持った作品なのかなとも考えた。
◼️三好達治選「萩原朔太郎詩集」
マンガ「月に吠えらんねえ」、鯨統一郎のパロディ小説「月に吠えろ!」は読んだけど、萩原朔太郎の詩をちゃんと読むのは初。
「吠えらんねえ」の朔ちゃんの詩を三好達治・ミヨシくんが編集していて、これは読まないかんと、図書館で見るたびに思っていた。
大正6年の「月に吠える」から
「青猫」「蝶を夢む」「純情小曲集」「萩原朔太郎詩集」「氷島」「定本青猫」「宿命」からミヨシくんが選んでいる。
巻末の解説によれば、「月に吠える」は全く意想外の斬新さを以て詩壇に登場したそうである。
初期白秋詩から訣別し、自由な、日常口語の親近性を駆使した奔放な用語に新しさが
あったようだ。「日本近代詩の父」と言われる所以である。残念ながらその点は詳しくないから分からない。
「月に吠える」で惹かれたのは「竹」。
「竹、竹、竹が生え」
というフレーズはどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。作品全体に勢いとすっきりとした力強さが漲る。
自然の事物に対してきれいにまとめている作品もあるのだが、労働者、のら犬、内蔵、貝、みぢんこ、ばくてりやほか、やや泥臭いかったり気持ち悪い、怪しげな対象物、表現も多い。また空想とも言えるべき設定や、何をいいたいのかストレートには分からない文脈もある。
そこはミヨシくんに言わせると、「多分に病的な幻想幻覚の一種逆説的詩美、その奇妙に普遍的な内的実感、温熱、近代的心理的錯綜と直截なリズム、詩中の時間的空間的常理の解体倒錯、そのまた何やら得体の知れない暗示性浸透性、昏冥の微妙な深さ」を内包しているのかもしれない。確かになんらか、独特の人間くさい表現の特徴はつかめたような気がする。
同時にまた、「月に吠えらんねえ」の決して美しくない描き方も少し納得がいったかな。
「青猫」には気になった作品も多かった。
「群衆の中を求めて歩く」は都会の群集の浪にもまれることを求める気持ち、「青猫」では都会への愛を描き、
「その手は菓子である」は女の手をこちたく耽美的に、情欲を混じえて捉え、
「月夜」では月夜に流れる多くの蝶類の帯となった姿を幻想的にうたっている。
決して一様ではなく、荒々しさや疾走感が感じ取れる作品もあり、晩年までの様々な形の、新時代を開いた感覚の瑞々しさを浴びることが出来る。
マンガの朔ちゃんは繊細で神経質でだらくさで、気弱いキャラなのだが、wikiで見ても正直で嘘や取り繕いが苦手で気弱、臆病で早口、伏し目がちで人の顔を見なかったとさんざんに書かれていて笑ってしまう。ミヨシくんへの依頼心が強かったのも確かなようだ。
「月に吠える」で一夜にして名声を得た、と本人も語っていたようだが「青猫」の序文がなかなかふるっているな、と思った。
「詩は私にとっての神秘でもなく信仰でもない。また況んや『生命がけの仕事』であったり『神聖なる精進の道』でもない。詩はただ私への『悲しき慰安』にすぎない。
生活の沼地に鳴く青鷺の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。」
「詩が常に俗衆を眼下に見下し、時代の空気に高く超越して、もっとも高潔清廉の気風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。」
んー、上から目線で自信を持って言い切っているところがなんかカッコいい。朔太郎37歳。
序文の最後に「私の如き者は、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。」と
この詩集のタイトルの位置付けを示している。
この本の最後に収録されている詩もどこか感銘を受けた。詩集「宿命」より「虚無の歌」。散文詩である。
「私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤独の椅子を探して、都会の街々を放浪して来た。そして最後に、自分の求めてるものを知った。一杯の冷たい麦酒と、雲を見ている自由の時間!昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだった。」
別に老いの寂しさに共感したわけではなくて、「孤独の椅子」という表現に惹かれただけだが、老いた詩人の胸中がダイレクトにある気がした。
◼️長野まゆみ「冥途あり」
こういう書き方もあるんだと、素直に受け止めた作品。長野まゆみ、手練れであり独自世界の構築家。
それぞれ108ページ、86ページの「冥途あり」「まるせい湯」の2本が入っている。連作中編とでもいう形の本。
「冥途あり」が江戸っ子だった父の葬儀、「まるせい湯」は3回忌の想い出巡り。
親子2代の文字職人だった父は戦時中の疎開先を、結婚してからしばらく経つまで母に知らせなかった。母だけでなく近所の人にも話さなかった。疎開したのが広島で、被爆したことを。
父の葬儀から、江戸の歴史とノスタルジー、さらに母の道行き、預金凍結のため原戸籍を取り寄せたことから、祖父の人生をも辿る。葬儀と、さまざまな過去、あの日の広島。現代と戦時と、もっと前の時代が錯綜し、幻想的な雰囲気に、現代的な登場人物たちがよいバランスをとっている。
物語の進行の中心とも言える大ボラ吹きで骨董品を扱い怪しい商売をしている双子の従兄弟、筆者の兄の妻、義姉のクセのある存在感も、打算的な母の姿もいい。
つくづく思うことがあるが、ある程度の年齢の人は、今は無くなってしまった当時の風習や風景、人間関係の想い出をたくさん持っているものだ。そして葬儀は兄弟親戚が集まる場なので、想い出が蘇りやすい。
多くの人が持っているであろう体験に端を発し、想いを薄く共有して、人や土地の歴史を、小さなことから日本の史実まで並べ、詩的な言葉、幻想的な雰囲気で味付けをするという手法には、素直に感嘆した。泉鏡花文学賞、野間文芸賞のダブル受賞作品である。
ただ好みもあるだろうと思う。「冥途あり」の最初から父が母が祖父がと丁寧な説明がなくすらすらと進んで行くので置き去り感を味わう。追いつくのは中盤を過ぎてからだった。強調をせずさらっと書き連ねている事もあって、何に心を動かされるべきか見えてこない。波も少ない。
私は「冥途あり」の中盤以降、とくに広島の原爆のくだりからようやく集中し始め、続きの「まるせい湯」はなじんだ気持ちで読んだ。もう少し読みたい、という欲求を満たしてくれる、連作中編成功ってとこかな。
長野まゆみはけっこう読んでいて、「少年アリス」「東京理科少年」「カンパネルラ」にはなかなか感動した。少年、男性しか出てこない話も多く、宮沢賢治風の雰囲気もある。それが持ち前のテイストかと思っていたので、こんな作品も描けるのかとちょっとびっくりした。しかも味がある。梨木香歩に似ていて、さらに独自の境地を構築している。
佐伯一麦の解説は、この本の分析、良さの表現はうなずけるものの、文章が上手いとは思えなかった笑。
最近葬儀を経験し、想い出話、そして「まるせい湯」のような想い出巡りもした。タイムリーにこのような本に出会うのも読書の醍醐味ってもんかな。
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