2019年4月28日日曜日

4月書評の5





 「日日是好日」で茶菓子に興味が出て、古本市でたまたま見かけたこの本を買ってきた。京都の松風は出てないんだな。

興味ありの茶菓子がたくさんあった。ぜひ京都へ買いに行ってみたい。

◼️「茶席の菓子」


茶菓子って、美しい。


「日日是好日」にカラーの写真が掲載されていて俄然興味を持った。ビジュアルで楽しむ本。


2ヶ月ごとに章が区切ってあり、ひと月ごとの季節の菓子が紹介されている。生菓子、干菓子。だいぶ前の本ではあるが、お店をwebで調べたりすると、全然まだあったりして嬉しい。老舗の菓子屋に詳しくなるのも楽しい。やっぱり京都の店が多い。妻にはそんな有名なのも知らなかったの的なことを言われるが、知らないから楽しいのさ~と気にしないダンナ。


スケジュール的にもう4月は買いに行けないから5月のものを見る。章頭の言葉もシンプルで爽やか。


「青空と青葉の皐月は初風炉のとき

潔さ、すがすがしさが身上の月」


京都・末富の「落とし文」

練り切りの緑の若葉が、中の紫のこしあんを包み込んでいる、と思う。いかにも的で目に鮮やか。秋には色づいた紅葉色になる。


同じく末富の「唐衣」

こちらは杜若を模したもの。しっとりしたういろう皮を花の形にたたみ、中にあん。品が良くて美味しそう!


虎屋の「菖蒲(あやめ)饅頭」。蒸菓子で緑に菖蒲の絵柄、頂点にあん?の紫のが配色してある、爽やかなおまんじゅう。


東京・ささまの「深見草」

ふかみくさ、は牡丹のこと。牡丹の大輪の花びらを濃いピンクの練り切りでかたどっている。中には小豆のこしあん。華麗。ささまは神保町の近くで、月替わりで菓子を出しているそう。行きたい!食べたい!でも私の出張っていまは昼日中に街をうろつく仕事じゃないんだよねー。


5月だけでこんなに楽しめる。すっかりマイブーム。京都の川端道喜も気になるし、この本には載ってないけど大徳寺のとこの松屋藤兵衛で松風買いたい。調べ始めて、完全予約注文の名店が多いのも分かった。


最後は愛知・美濃忠の「初かつお」。ういろうと葛を合わせて薄紅に染めた、羊羹のようなもので、小口切りにすると鰹の切り身のような縞目が現れる。色鮮やか。


先日名古屋出張があって、駅の高島屋に見に行った。ふつうの羊羹サイズのものはすでに売り切れ。ハーフのもので約1300円。正直たったこれだけで?という思いもあり、時間もなかったから見送った。webで見ると2~5月の限定販売で、都市圏は名古屋でしか手に入らない。めったに出張するとこでなし、購入しなかったからよけいに、あー買っときゃよかった~と後悔したのでした。


茶菓子はもちろんお茶席のもの。その取り合わせの美味しさも知っているつもりだけれど、苦ーいコーヒーでもいただいてみたいな、と思っちゃうのでした。叱られるかな。


詳しい方居ましたらぜひ美味しい茶菓子をお教えください。。


◼️「芭蕉紀行文集」


「笈の小文」がいい。芭蕉の紀行文は面白みと交友の豊かさと、わび、が盛り込まれている。


「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」「嵯峨日記」が収録されている。旅の細々した出来事や多くの門人たちとの触れ合い、土地の風情を描き、芸術論もある。決めどころで俳句、というのはずるいくらい恰好いい形になっている。


「おくの細道」はひとつの出来上がった芸術品。こちらは小品の集まりで有名な句も少ない。しかしやはりものすごく歩き回っているし、底流に流れるものはよく似ている。


この本は、探した。日本画家千住明氏の著書で、「笈の小文」に「風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」とある、というのを見たから、芭蕉の芸術観を読んでみたくなった。自然の造形に従って、四季を友とする、という意味合いだろうか。


この後、「見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」と続く。訳がついてない本、でもなんか分かる気がする、でしょ?


今回もう一つ目を止めた文章があった。「きみ井寺」の最初の方。


「山谷海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の實をうかがふ。猶栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕にかへ、晩食肉よりも甘し。とまるべき道にかぎりなく、立つべき朝に時なし。只一日のねがひ二つのみ。こよひ能き宿からん、草鞋のわが足によろしきを求んと斗は、いささかのおもひなり。時々気を転じ、日々に情をあたらむ。もしわづかに風雅ある人に出合ひたる、悦びかぎりなし。」


芭蕉は、由来ある跡地、史跡などに往時と現在を思い感動する場面もよくあるのだが、身軽に、自由で、自然な感性の旅を楽しんでるように見える。ピュアで感受性が強く、鋭い。それともちょっと演出した上から目線?・・そうは思えないな。


俳句を2つ。「笈の小文」、いまの愛知の鳴海に泊まったときの句。


星崎の闇を見よとや啼く千鳥


鳴海に近い星崎は千鳥の名所だった。


その後南下し、渥美半島の根元、吉田に泊まり、朝出発の際、冷たい海風に吹かれて。


冬の日や馬上に氷る影法師


一見して寒さが伝わってくるな、と感じる。


いくつか余談を。千住氏の著書で読んだことを、ものすごく本を読んでいる後輩に話すと、やはり「笈の小文」は面白いです、と言っていた。確かに、東海地方から、和歌山、奈良、須磨、明石、淡路島というルートは関西に住むものには親近感が湧く。上に挙げた芸術論も心にしっくりと来る書きっぷりだった。読んでよかった。


2019年4月22日月曜日

4月書評の4






夏の走りと書いた。最近ワンコとリビングで寝ているのだが、これが寒い。まだ上下ダウンで登山の睡眠みたい。こんな年もあっていいかも。阪急岡本、ハイソなエリアのおしゃれな野菜カフェであったミニ古本市にでかけた。


◼️河野裕「つれづれ、北野坂探偵舎 

                           心理描写が足りてない」


ご当地ラノベ。舞台は神戸。ストーリー作家探偵と熱い元編集者。


神戸・三ノ宮から山手へ向かう北野坂にある喫茶店「徒然珈琲」。高校3年生の小暮井ユキは、オーナーで元編集者で探偵舎も営む佐々波蓮司と、若い小説家の雨坂続(つづく)に出逢う。ユキは探偵舎のチラシを見て、佐々波に、友人が幽霊となって現れたと言い、彼女が見たがっている夕暮れ空の表紙の本を探して欲しいと依頼する。佐々波は霊感が強く、その友人、星川奈々子の霊が見えていた。


ここまで奈良や京都のご当地ものを読んできたが、私のメインの街は神戸。見かけて興味が湧き購入。北野坂は三宮からまっすぐ山へ向かう坂。山手はおしゃれなエリアとされていて、上っていくと異人館街がある。


雨坂は爆発的には売れないが固定ファンを持つ堅調な小説家。身体つきの細い青年で鮮やかなグリーンジャケットを着こなす、端正な王子的探偵。一方佐々波は背が高くてストライプのスーツ。ワトスンというよりは、コナンで言えば毛利小五郎、ホームズで言えばレストレード警部のタイプか。出版社をやめても編集者として雨坂に接している。


物語は連作短編で幽霊を軸に展開され、最後に全てがつながるようになっている。ちょっとしたホラー風味もある。


謎の解き方とコンビの形に特徴がある。探偵役の雨坂には小説家としてのこだわりを強く打ち出していて、基本はストーリーとして成り立つように推理する。なので汗をかくタイプではない。佐々波は雨坂を「ストーリーテラー」と呼び、雨坂はときおりそれに応えて「編集者」と返す。ちょっと気取りぎみの設定。


女子高生、幽霊、ミステリー、天才的で特徴のある推理者と、分かりやすいコンビ。道具立ては揃っている。おまけに「パスティーシュ」と呼ばれるカフェの女性店員もいい感じにチャーミング。メイド姿の森泉なぞ想像してしまった。ラノベだなぁという感じ。


謎はまずまず面白かった。が、理屈が多すぎる感があった。またもう少し神戸の街を描写して欲しかった気もする。まあ続巻も出ているようなので、そこでちょっとずつ出てくるのかな。次に巡り会えればまた買うことにしよう。


◼️稲垣栄洋「世界史を大きく動かした植物」


最初はいわゆるプラントハンターの話かと思ったが、もっと大くくりの、壮大な話だった。


コムギ、イネ、コショウ、トウガラシ、ジャガイモ、トマト、綿、サトウキビ、ダイズ、タマネギ、チューリップ、トウモロコシ、サクラが世界史に与えた影響について書いている。


イネについては、田んぼの保水能力のくだりで、1994年のコメパニックを思い出した。スーパーの店頭には外米ばかりが並ぶという、いまだかつて経験しなかった時期。長くかからず落ち着いたが、田んぼをなくしてはいけない、という議論の中に保水能力、という話があった。この章はなぜ日本は人口密度が高いのか、まで言及していて興味深い。


私はジャガイモ好きなので、栄養価が高く、大量生産が可能、保存も効くというジャガについての再評価で、うんうんとうなずいてしまった。ルイ16世はコムギに代わる食糧としてジャガイモを広めようとし、マリー・アントワネットにジャガイモの花の飾りを付けさせてPRした。またアイルランドでジャガイモの飢饉が起きた時、多くの人々が海を渡って新天地アメリカに渡り、工業化、近代化を支えたとか。それほどまでに食糧として大事にされていたのかというエピソード。


綿、タマネギ、ダイズも身近で影響力が大きいのはそうだろうなと思った。チューリップの価格が信じられないほど高騰しバブルがはじけたのにはふむふむとなった。


最後の方のトウモロコシはなかなか面白かった。明確な祖先種である野生植物がなく、宇宙から来たのではという都市伝説さえあるんだとか。世界一の生産量を誇り、コーン油、コーンスターチはもちろんトウモロコシから作られる甘味料、資材やダンボールに至るまで、我々人間はどこかで必ずトウモロコシと関わっているというのは新鮮だった。さらには人の口に入る量は少なく、世界のトウモロコシの多くは家畜の飼料になるんだとか。


我々が食べているあの黄色のつぶつぶは種だそうだ。植物だったらふつう果実を鳥や動物に食べさせて種子を運搬してもらう。糞の中に混ざって排出された種子が各地で発芽するといったように、種子は何らかの手段によって運搬、散布されるもの。しかしトウモロコシの形状はそうではなく、人間の助けなしには育つことが出来ないといったミステリアスな一面も持っている。なかなか興味深かった。

 

書き方は、こうだ、と言い切っているところも多く、学者さんが書いたにしてはおおざっぱかなと思った。たしかに植物の覇権を目指して相争うということはあったと思えるが、植物に手のひらの上で踊らされているのかもしれない、というのには違和感があったかな。


4月書評の3







名古屋でひつまぶし。もう20度を余裕で越して暑い。陽が落ちても寒かったり暑かったり。ぼちぼち夏の走りかな。

◼️森下典子

「日日是好日ー『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」


ああそうか、と自分が変わっていく、変わる瞬間を実感する。そんな作品。


樹木希林さんの最後の出演作ということで、映画見に行こうかな、と思っているうちに機会を逃してしまった。するといつもの本読みの後輩がいかがですか、と貸してくれた。その偶然の機会が、気づくきっかけに通じているような気までした。


筆者は女子大生時代に近所の「武田のおばさん」にお茶を習い始める。こういう風にするものよ、と理由を言わず型をひたすら教えられることに不満を抱きつつ、その後20数年も続ける。その間に、長い時間をかけて、実感を持って悟る瞬間を何度も迎える。


お茶、茶道に関しては私も全く素人だが、興味を持ってはいた。山本兼一「利休にたずねよ」、川端康成「千羽鶴」と小説を読むたびに作法や茶道具にさわり程度に関心を持って読んでいた。つくばい、棗、蒔絵、有名な茶碗など、形や色、デザインも美しいものが多いし、また日本語としても面白いと思う。


この作品でも、掛け軸、多くの茶花、写真のページがあり見目麗しく美味しそうな和菓子には心惹かれる。これらの紹介も作品の主要な一部ではあるが、主題ではない。


武田のおばさんは、いつになっても理由、理屈を教えてくれない。筆者はお点前の順序や決まりごとを覚え、人に教えることをも勧められるレベルに達するのだが、それでもまだ、茶道そのものをつかみきれないような状態が続く。


でもその間に、掛け軸や額に書いてある文字の意味や流れをつかみ、「音」の違い、匂い、色の感覚の目覚めを実感し、異空間に漂うような感覚まで覚える。それらは季節にもつながっている。教えない、というのは大した方針だと思うが、だから到達したときの感慨は際立つ。


自分を振り返ると、学生時代スポーツをしていてまったく興味のなかったことが年を経るにつれ気になってくる、友人の内面も変化してゆく、ということは常に感じてきた。休みに山にドライブに行く、の次に新緑がきれいだろうな、と話したり、秋はススキの群生を見たいと思ったり、何気ない花や鳥の声まで気になってくる。よく見る、よく聴く、という感覚も育ったような気がしている。


長い時間を過ごす間には多くの経験をし、毎日様々なことを思う。どんなに身近な人にも伝えきれない多くの孤独な時間と言葉を心に持っている。筆者が人生、生活を過ごす中でお茶によって豊かになっていく感覚を得て表現してすることが、この本に込められたものの一つかも知れない。


ではお茶やってみようか、とは思わないが、興味をかきたてられる作品でした。


お湯が沸く、くつくつ、ともジュルジュル、とも聞こえる音が聴きたくなる。お茶菓子にも興味が出た。銘菓を買ってみようかな。結局食い気か。^_^


◼️恒川光太郎「夜市」


著者の文章はしっとりした色気を伺わせ読者を異界へと引き込む。日本ホラー小説大賞。


先日「金色の獣、彼方に向かう」を読んで、興味を持ち読んでみた。デビュー作であり直木賞候補ともなった本。


私は小説の魅力を色気、と表すことがあるが、これは直截な妖艶さを言っているのではなく、作品が醸し出す面白み、とか文章や物語が漂わせる雰囲気を指し示している。


正直言うと、ストーリーの成り行きや結末といったものにはやや物足りなさも感じる。しかしこの人が持つ、抑えた筆致で、闇に安心して浸りつつ、どこか光って見える、品を感じさせる文章や、物語の上手な不整合さ加減に才能の閃きのようなものを感じる。


異世界の暗さ、黒さ、微妙な不思議さに、読んでいるうちに取り込まれ、短い時間で読み切った。


表題作「夜市」と書き下ろしの「風の古道」、100ページほどの中編が2本、という作品。


女子大生のいずみは、高校の元同級生でバイト先が同じの裕司に、夜市に行かないかと誘われる。岬の方にある人気のない公園の奥の森に分け入った2人は一つ目ゴリラが刀を売ってたり、のっぺらぼうが老化の進む薬をうっていたりする市を発見する。いずみは、裕司の口から、かつて夜市で才能を買うために人さらいとした取引のことを聞くー。(夜市)


 「夜市」「古道」ともに子供が絡み、異世界から出られない、といった共通点がある。どちらもオチのある話が魅力的に織り成される。


ストーリーに魅力があるからだろう、次は次はとページをめくる。いつもながら早く読み終わった。落ち着いた平易な文章がまた闇の深さと、煌めきをも感じさせる。ひとつの形だろうと思う。


ただ・・異世界では、妖怪が普通に出てくるし、派手な殺しシーンもあるし、お金の意識付けもされてて、イヤミスのようなセリフもある。それでも、


どこかストーリーに爆発力がないといった点で物足りなさを感じる。そんな作風と言ってしまえば、だが、ひとつの形ではあれど何か足りない、と思えてしまう。


もう少し読んでみようかな。


2019年4月14日日曜日

4月書評の2






寒暖の差が激しかったからか、妻が風邪で倒れる。最高で38.9度。急いで買い物して帰る。するとある朝息子が寒気と頭痛。37.8度でその日は寒の戻りの日だから即休みを決断。で、会社行ったんだけど、39.4度まで上がったと。帰って看病してやる。なかなか体温が下がらないと救急病院に行ったらインフルエンザだって。

んで、週末にかけてずっと看病の巻。妻も動けないので買い物、ついに簡単な料理まで。

ちょっと書いとくと、土曜日の昼は少しずつ食べられるようになってきて、お茶漬けにレトルトのシチュー。夜は妻が作ったおじやに具材を調理したラーメン。深夜おなかがすいたとリンゴ切ってやってバナナも食べた。

日曜日昼はおじやをあっためて、ポン酢かけて食べる。最初はポン酢にけげんな顔をしていた息子は「意外においしい」と2杯食べる。前日買い物したミニハンバーグを試してみる。息子あまり好みじゃないとか。でも食べる。リンゴも食べて栄養は補給できた。しばらくはまともに食べる体力がないから、飲むエネルギー、なんて言うんだろ、みたいなものを飲んでいた。熱も上がらないが、暑かったり寒かったり、どうも体調がすっきりしないようだ。

夜は久し振りにチョーシンプル玉ねぎ豚肉炒めを作ってみた。塩胡椒で味付けするだけ。まあ見た目よりは食べるとイケてるというやつだ(笑)。ウインナーも炒めた。やはり切れ込み入れないと中に火が通りにくい。

火曜日まで学校に出てはいけない。インフルは大変だ。

◼️夏目漱石「吾輩は猫である」


コミカルさ、時代の反映、書生の学と性質。書きっぷりが現代に与えている影響が見える気がした。


ここ数年文豪ものを少しずつ読んでいるが、巨匠夏目漱石については、老後の楽しみとばかりあまり読んでなかった。「わが猫」人生初の通読。長かった。


子猫の時分、教師の苦沙弥先生宅に飼われることとなった猫・吾輩。近所の事業家金田家の娘を巡るいざこざ、家に入った泥棒などの騒動を体験する。


苦沙弥先生はもちろん、金田、その妻の鼻子(猫がつけた名前)、その娘富子、先生の細君、住み込みのおさん、3人の小さな娘に、先生の姪っ子雪江などを猫のクールな目線から面白く描く。がらっぱちの黒、早逝してしまうガールフレンドの三毛子との会話も面白い。隣接する学校の生徒が野球のボールをしじゅう先生宅に打ち込み、先生が度重なる侵入に怒るという、なんかサザエさんみたいな展開になるのもにぎやかし。


後段は先生宅に出入りする、自称美学者の迷亭、物理学者の寒月、哲人独仙、昔の書生で鹿児島生出身の三平らが自分の考え方を述べる。これが長くて衒学的。うーんといったところである。まあストーリー的小説ではないな。


読んでみて感じたのは、現代に至るまでのさまざまな影響。(ではないかと私が勝手に思ってるだけだが)


先だって内田百閒「第二阿房列車」を読んだが、さすが門弟、書いている中身は違うのだが、テンポというか、文調というか、呑気で上から目線でだらだらしているところが似ているな、と感じてしまった。


やたらそもそも、と人間世界の行動や形式に理屈が多いところは森見登美彦を連想したし、登場人物の話し方には夏目漱石の著作をよく読みすぎたために口調までそれっぽい「神様のカルテ」主人公の栗原一止を思い出した。息子がアニメをよく見ている「銀魂」にすら、どこか似ているかなと感じてしまう。


解説によれば、夏目漱石は正岡子規の文集の批評を漢文で書き、房州への旅行記を漢文と漢詩で書いたと言う。なるほどと言うか、作中に出てくる古典の例えや熟語が漢籍っぽくて、難しくてさっぱり分からない(笑)。


衒学的な筆致もここまでいくとすごいな、というくらい博識であると思う。

明治38年の作品で、作品の設定は日露戦争中であるらしい。最近の若者は、というくらい言葉はローマ時代からあるらしいが、作中で展開されている社会の風潮に対する痛烈な批判は、現代にも通じるものがある。


私など漱石にうとい者がどうこういうのもなんですが、読み進むのに難があったりするが、やはりなんらかの力を持った作品なのかなとも考えた。


◼️三好達治選「萩原朔太郎詩集」


マンガ「月に吠えらんねえ」、鯨統一郎のパロディ小説「月に吠えろ!」は読んだけど、萩原朔太郎の詩をちゃんと読むのは初。

「吠えらんねえ」の朔ちゃんの詩を三好達治・ミヨシくんが編集していて、これは読まないかんと、図書館で見るたびに思っていた。


大正6年の「月に吠える」から

「青猫」「蝶を夢む」「純情小曲集」「萩原朔太郎詩集」「氷島」「定本青猫」「宿命」からミヨシくんが選んでいる。


巻末の解説によれば、「月に吠える」は全く意想外の斬新さを以て詩壇に登場したそうである。


初期白秋詩から訣別し、自由な、日常口語の親近性を駆使した奔放な用語に新しさが

あったようだ。「日本近代詩の父」と言われる所以である。残念ながらその点は詳しくないから分からない。


「月に吠える」で惹かれたのは「竹」。


「竹、竹、竹が生え」


というフレーズはどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。作品全体に勢いとすっきりとした力強さが漲る。


自然の事物に対してきれいにまとめている作品もあるのだが、労働者、のら犬、内蔵、貝、みぢんこ、ばくてりやほか、やや泥臭いかったり気持ち悪い、怪しげな対象物、表現も多い。また空想とも言えるべき設定や、何をいいたいのかストレートには分からない文脈もある。


そこはミヨシくんに言わせると、「多分に病的な幻想幻覚の一種逆説的詩美、その奇妙に普遍的な内的実感、温熱、近代的心理的錯綜と直截なリズム、詩中の時間的空間的常理の解体倒錯、そのまた何やら得体の知れない暗示性浸透性、昏冥の微妙な深さ」を内包しているのかもしれない。確かになんらか、独特の人間くさい表現の特徴はつかめたような気がする。


同時にまた、「月に吠えらんねえ」の決して美しくない描き方も少し納得がいったかな。


「青猫」には気になった作品も多かった。

「群衆の中を求めて歩く」は都会の群集の浪にもまれることを求める気持ち、「青猫」では都会への愛を描き、


「その手は菓子である」は女の手をこちたく耽美的に、情欲を混じえて捉え、

「月夜」では月夜に流れる多くの蝶類の帯となった姿を幻想的にうたっている。


決して一様ではなく、荒々しさや疾走感が感じ取れる作品もあり、晩年までの様々な形の、新時代を開いた感覚の瑞々しさを浴びることが出来る。


マンガの朔ちゃんは繊細で神経質でだらくさで、気弱いキャラなのだが、wikiで見ても正直で嘘や取り繕いが苦手で気弱、臆病で早口、伏し目がちで人の顔を見なかったとさんざんに書かれていて笑ってしまう。ミヨシくんへの依頼心が強かったのも確かなようだ。


「月に吠える」で一夜にして名声を得た、と本人も語っていたようだが「青猫」の序文がなかなかふるっているな、と思った。


「詩は私にとっての神秘でもなく信仰でもない。また況んや『生命がけの仕事』であったり『神聖なる精進の道』でもない。詩はただ私への『悲しき慰安』にすぎない。

生活の沼地に鳴く青鷺の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。」


「詩が常に俗衆を眼下に見下し、時代の空気に高く超越して、もっとも高潔清廉の気風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。」


んー、上から目線で自信を持って言い切っているところがなんかカッコいい。朔太郎37歳。


序文の最後に「私の如き者は、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。」と

この詩集のタイトルの位置付けを示している。


この本の最後に収録されている詩もどこか感銘を受けた。詩集「宿命」より「虚無の歌」。散文詩である。


「私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤独の椅子を探して、都会の街々を放浪して来た。そして最後に、自分の求めてるものを知った。一杯の冷たい麦酒と、雲を見ている自由の時間!昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだった。」


別に老いの寂しさに共感したわけではなくて、「孤独の椅子」という表現に惹かれただけだが、老いた詩人の胸中がダイレクトにある気がした。


◼️長野まゆみ「冥途あり」


こういう書き方もあるんだと、素直に受け止めた作品。長野まゆみ、手練れであり独自世界の構築家。


それぞれ108ページ、86ページの「冥途あり」「まるせい湯」の2本が入っている。連作中編とでもいう形の本。


「冥途あり」が江戸っ子だった父の葬儀、「まるせい湯」は3回忌の想い出巡り。


親子2代の文字職人だった父は戦時中の疎開先を、結婚してからしばらく経つまで母に知らせなかった。母だけでなく近所の人にも話さなかった。疎開したのが広島で、被爆したことを。


父の葬儀から、江戸の歴史とノスタルジー、さらに母の道行き、預金凍結のため原戸籍を取り寄せたことから、祖父の人生をも辿る。葬儀と、さまざまな過去、あの日の広島。現代と戦時と、もっと前の時代が錯綜し、幻想的な雰囲気に、現代的な登場人物たちがよいバランスをとっている。


物語の進行の中心とも言える大ボラ吹きで骨董品を扱い怪しい商売をしている双子の従兄弟、筆者の兄の妻、義姉のクセのある存在感も、打算的な母の姿もいい。


つくづく思うことがあるが、ある程度の年齢の人は、今は無くなってしまった当時の風習や風景、人間関係の想い出をたくさん持っているものだ。そして葬儀は兄弟親戚が集まる場なので、想い出が蘇りやすい。


多くの人が持っているであろう体験に端を発し、想いを薄く共有して、人や土地の歴史を、小さなことから日本の史実まで並べ、詩的な言葉、幻想的な雰囲気で味付けをするという手法には、素直に感嘆した。泉鏡花文学賞、野間文芸賞のダブル受賞作品である。


ただ好みもあるだろうと思う。「冥途あり」の最初から父が母が祖父がと丁寧な説明がなくすらすらと進んで行くので置き去り感を味わう。追いつくのは中盤を過ぎてからだった。強調をせずさらっと書き連ねている事もあって、何に心を動かされるべきか見えてこない。波も少ない。


私は「冥途あり」の中盤以降、とくに広島の原爆のくだりからようやく集中し始め、続きの「まるせい湯」はなじんだ気持ちで読んだ。もう少し読みたい、という欲求を満たしてくれる、連作中編成功ってとこかな。


長野まゆみはけっこう読んでいて、「少年アリス」「東京理科少年」「カンパネルラ」にはなかなか感動した。少年、男性しか出てこない話も多く、宮沢賢治風の雰囲気もある。それが持ち前のテイストかと思っていたので、こんな作品も描けるのかとちょっとびっくりした。しかも味がある。梨木香歩に似ていて、さらに独自の境地を構築している。


佐伯一麦の解説は、この本の分析、良さの表現はうなずけるものの、文章が上手いとは思えなかった笑。


最近葬儀を経験し、想い出話、そして「まるせい湯」のような想い出巡りもした。タイムリーにこのような本に出会うのも読書の醍醐味ってもんかな。


2019年4月8日月曜日

4月書評の1




この週のトピックはなんといっても新元号。4月1日午前11時30分の予定が11分ほど遅れた。新元号は「令和」。まとまりがあって品がある二文字だと素直に感心。万葉集から取られたという。でも、「令」は20日前に亡くなった母の名前の一部で、できすぎだろうと思った。母は新元号を見ることなく逝ってしまった。


翌2日。最高11度最低3度の寒の戻り。帰りは余裕で10度を切る。雨も降る可能性高し。着納めっと冬用ダウンを着て行った。万葉ブームなんか起きてくれるなよ〜。元から好きな人は煩わされず楽しみたい。心狭いかな。


週末は打って変わって暑さすら感じる陽気。ひたすら本を読んでうたたねしてた。


日曜日、9回表に西武ライオンズ外崎が、値千金の逆転3ラン。アウトコースの振らせたい変化球にひっかからず、インハイのストレートを狙い撃ち。スカッとしたなあ。



椹野道流

「最後の晩ごはん お兄さんとホットケーキ」


長い本格小説のあとのラノベは美味しい。


このシリーズは順番通りに読んでないが、いまのところ問題ない。兵庫・芦屋市のご当地ラノベシリーズ③。


スキャンダルで芸能界を追放同然となった若手俳優の五十嵐海里は神戸・東灘区の実家に身を寄せるが、厳しい兄に追い返される。隣の芦屋市にある定食屋「ばんめし屋」の店主・夏神に拾われた海里は住み込みで料理の修行に励む。海里は少し霊感があり、眼鏡の付喪神で英国執事の姿で現れるロイドとともにその種のトラブルの解決に当たる。


今回は、海里と犬猿の仲である兄・一憲との話。一憲の婚約者で獣医の奈津がばんめし屋を訪れる。義弟となる海里と親しくなりたいためだった。奈津の買い物に付き合った海里は実家まで送っていくが、酔った兄と出くわし、ケンカ別れしてしまう。その日の夜、奈津は交通事故で意識不明にー。


だいたい成り行きが分かるタイトルで、その通りになる。その身の上から身内を持つことに強い憧れがある奈津が強く魅力的な輝きを放つ。ラノベなのであんまり、だが年の離れた男兄弟のケンカは子供っぽく、思慮深さが感じられない。でも我が身を見ても兄弟にはついキツく当たってしまうのも分かる。一憲は父の死により若くして家を背負わなければならなくなった過去があり、弟への行き過ぎたような厳しさにはうまくエクスキューズをつけてあると思う。


ホットケーキ、は、この書評を読んでくれている皆さんには思い出があるだろうか。私は、土曜日の昼食の定番がホットケーキだった。黄色いベースに美味しそうな焦げ目があるちょっと大きめのホットケーキ。バターでもハチミツでもいける。たまに中にメリケン粉の塊が入っていたりする^_^姉弟とわやわや言いながら食べた記憶。もう二度と食べられない味。


だから私にとってこの話はとても説得力を持ったものだった。


斎藤茂吉 「万葉秀歌 上」


柔らかさ、ゴツさ、哀しさ、土くささ・・万葉集の言葉には憧れる。


「令和」発表でその気になり手元にあった万葉集の本を読むという。ミーハーだけど、やっぱ好きだな万葉集。


斎藤茂吉が万葉集の中から選んだ歌について解説している。楽しく鑑賞しましょう、というものではなく、万葉仮名からの読みの考証、助詞や動詞の研究、句ごとの分析など学説を持ち出して比較したりとか、なかなか専門的。難しいよー茂吉っつあんーとか唸りながら読み進めた(笑)。


そんなに造詣が深いわけではないが、やっぱり万葉集の歌には惹かれるな。最初の方はうんうん言いながら読んでたけど、気づけば歌そのものの言葉や全体の雰囲気、歌の背景なんかへ、静かに想いを巡らせ、落ち着いている自分に気付いた。


「令和」のもとになった巻五の序文ならびに三十二首の梅花の歌は取り挙げられていない。残念。巻五は大伴旅人の妻を亡くした悲しみと、病に苦しむ山上憶良の歌が中心。ちなみに序文は憶良が書いたのではと言われているとか。


歌碑が太宰府にも奈良にもあり、話題となっている小野老の歌は巻三で、これは選ばれている。


あをによし寧楽(なら)の京師(都)は咲く花の

薫ふがごとく今盛りなり


大宰の帥大伴旅人を中心とした筑紫歌壇の一人。梅花の宴にも参加したはずの人。奈良の都を思った歌とも、たまたま帰京したおりに作ったのではとも言われている。おっとー、改めて見ると、この歌の解説の中に巻五の梅花の歌を発見。


梅の花いまさかりなり思ふどち

挿頭(かざし)にしてな今さかりなり

                                 葛井大成


もうひとつ筑紫歌壇の歌。


しらぬい筑紫の綿は身につけて

いまだは着ねど暖かけく見ゆ

                               沙弥満誓


しらぬい、は筑紫の枕詞。福岡南部に不知火女子高、というのがあったし、有明海をイメージしててっきり不知火かと思ってたら、白縫、などらしい。不知火は後世の当て字だとか。


さて、もちろんあかねさす紫の、とか不尽の高嶺に雪は降りける、とか衣ほしたり天の香具山とか、著名な歌はあるのだが、今回は永井路子「裸足の皇女」で読んだ一連の物語にまつわる歌がより心に響んだ。


人言をしげみ言痛み(こちたみ)おのが世に

いまだ渡らぬ朝川渡る


高市皇子の妻でありながら、穂積皇子と恋愛関係にあったと推測される但馬皇女が感情を抑えきれず、妻問婚の時代に川を渡って逢いに行き、人がうわさするから、と朝また川を渡って帰っている。


この歌の解説にあるもう一首。


秋の田の穂向きの寄れる片寄りに

君に寄りなな言痛かりとも


などは恋する女性の可愛らしさがよく出ていると思う。「寄りなな」、君に寄り添っていたい、という言葉がいいですね。


穂積皇子が亡くなった但馬皇女を想い作った歌。


降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の

猪養(いがい)の岡の塞(席)さまなくに


降る雪はあまり多く降るな。但馬皇女の墓のある吉隠の猪養の岡に通う道を遮って邪魔になるから。


今回も、驟く・うくつくとか呼子鳥、殯宮 ・あらきのみや、なほなほに、など日本語を楽しませてもらった。ハ◯キルーペじゃないけど、万葉集、好きだな。


最後に、心に残った一首。


山吹の立ちよそひたる山清水

汲みに行かめど道の知らなく

                                 高市皇子


天武天皇の子・高市皇子が、山吹の花にも似た異母姉の十市皇女の急逝に、どうしてよいのか分からない、といった心象を表したもの。十市皇女は天武天皇と額田王の間の子である。


分かるような気がしたな。