◾️川端康成「雪国」
有名な冒頭に加え、序盤の列車内と終盤の天の河に火があまりにも幻想的で見事。人生変わりました。
ノーベル文学賞選考の対象作品であり、非常に名高い「雪国」。大げさに言えば、私の人生を変えた小説です。つい5年前くらいのことです。そこから私は川端ラブになりました^_^
今回再読して、またコーフンしました。とにかく表現が素晴らしい。多く読んでいる私にしてもどうしちゃったの?文学の神が降りたか悪魔が憑いちゃった?というくらいです。ぎゅーっと良さが凝縮されています。
舞台は越後湯沢。行ったことおありでしょうか、上越新幹線で東京側から行った場合、長いトンネルの後にいきなり山中に入った感覚に襲われます。まだ雪国読んでなかった頃だったんですが、それでもハッとしました。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
チョー有名な書き出しです。景色が変わるのは先の通り。私的には後段の夜の底、が、かなりカッコいいなと気に入ってます。しかし、序盤、書き出しだけではありません。
この物語の主人公の舞踊批評家・島村。その座席の向かい側にいる娘が窓を開けて叫びます。雪国の冷気が入ってきます。
「駅長さあん、駅長さあん」
美しい声、これがヒロインの一人、葉子でした。葉子は弟が鉄道に勤めていて、駅長さんとも顔見知りなのでした。
葉子は向かい側の席で寝ている病気の男を献身的に看病していました。
「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」
きゃーアダルト。訴えないで下さいねー。「伊豆の踊子」の直後に「雪国」を読むと、序盤ちっとオトナのテイストがあるので途惑います。まあそこは主眼じゃありません。
で、その指で窓ガラスに線を引くと、葉子の片眼が浮き出て、島村はびっくりします。もう完全に話の暗示ですね。読み進めると分かってきます。
葉子は「涼しく刺すような」美しさでした。島村は外を見るため、というフリをして曇ったガラスを拭き、ガラスに映る葉子の様子を眺めます。その背景にはやはりガラスに映った夕景が重なり、夕景色の流れの中に娘が浮んでいるように思われます。二重写しになってるんですね。
そして暗くなり、葉子の顔のなかにともし火がともり、流れて通ります。娘の眼と火とが重なった瞬間、妖しい美しさを放つのでした。
ここまで、正直最初にがつっと掴まれました。電車の窓の二重写しは誰もが経験したことのあるもの。雪国の夕景と山村のともし火、そこに刺すような美しさの女がいれば完璧です。ちょっと作りすぎのような気はしないでもないですが、実際に十分あり得るシチュエーション。冒頭の幻想的な美しい光景が、この作品の大きな魅力の一つであるといっても過言ではないでしょう。
さて、島村は恋仲の駒子という20歳の若い芸者に逢いに来たのでした。ちょっとはっちゃけた、そしてほんの少しの狂気を宿したようなところもある駒子。島村は妻子が東京にいます。
のほほんとした身分、小太りの島村は新緑の季節に駒子と知り合い、最初に部屋に遊びに来た時、なんと金で抱ける芸者を紹介しろ、と持ちかけます。まあいるにはいるんですが、強烈で失礼ですよね。でも駒子は島村に想いを寄せます。島村もまた、駒子の清潔さ、美しさに惹かれます。
最初の方の、駒子の描写。
「細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ脣はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで・・濡れ光っていた。目尻が上りも下りもせず、わざと真直ぐに描いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。少し中高の丸顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいてないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。」
清潔、は何度も出てくる駒子のキーワードです。
駒子はお座敷を抜け出して、夜の10時ごろ、酔って島村の部屋に来ます。とりとめもなくりしゃべり、またお座敷に戻る駒子。正体ない様子で戻ってきて、島村にもたれかかり、なんと自分の肘にがぶりと噛みつきます。そのまま一晩、島村の部屋で過ごします。
「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」
「『私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。』などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。」
駒子は朝に帰ります。その日島村は東京へ帰りました。
そして冒頭に続くこの2回目の訪問の時、葉子が登場し、物語は大きく動きます。
島村の2回めの訪問は年の暮れでした。目的はもちろん駒子に会うことです。駒子は、島村と初対面の時、東京へ売られ、お酌をしているうちに受け出され、ゆくすえ日本踊の師匠として身を立てさせてもらくつもりであったところが、一年半ばかりで旦那が死んだと素直に話しています。
つまりお金持ちのお妾さんになったが、その男が死んだということですね。で、故郷の港町に帰りました。前は芸者見習い、手伝いのような立場だったのが、今回は芸者になっていました。
駒子と再会した島村は、駒子が十五、六のころから読んだ小説のメモを全部雑記帳に書き留めておく、というのを聞き、「徒労だね」と言い捨てます。しかし、そんな言葉を叩きつけると、かえって彼女の純粋さに惹きつけられます。この徒労だね、という部分は、全編を貫いている雰囲気として書評でよく取り上げられるようですが、私はもひとつピンと来ませんでした。
夜中、一緒に風呂に入って明け方、駒子の頰の赤い色に見惚れます。ここの描写もなかなかです。
「島村はその方を見てひょっと首を縮めた。鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頰が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさだった。
もう陽が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。」
飛ばしてますねー。またハマっている。本当にこの物語はそんな表現が多いのです。
駒子が家に寄れ、と言った際、島村は訊きます。病人がいるだろう、と。島村が来る列車の向かいにいて、葉子に看病されていた男は駒子のお師匠さんの息子・行男で、あの日駒子が駅に行男の迎えに来ていたことを島村は知っていたのでした。駒子は、男は東京に出ていたが、腸結核で故郷へ死にに帰った、と話します。
部屋を出るとき、突然美しい声の葉子が顔を出します。病人の看護をしていたのでした。島村は艶いた美しさを葉子に感じます。
島村はその後頼んだ女の按摩師に、駒子は行男のいいなずけで、この夏芸者に出てまで治療費を支払ったのだと知らされます。駒子に聞くとお師匠さんが幼馴染の2人の縁を望み、やむなく、と。行男への気持ちはないようです。
だんだん真実が明るみに出ているのかちょっとこんがらがってるのか、その中間くらいですね。
東京に帰る時、駒子は駅まで送ってきます。そこへ葉子がかけつけます。
「ああっ駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん」
危篤の報。駒子はガンとして帰りませんでした。島村を見送りたい、人が死ぬのなんか見るのはいやだ、と。島村も説得しますが、聞き入れません。
3回めに島村が来たのは紅葉美しい秋でした。なんちゅう間の開き方。
駒子は文句を言いながらもやはり嬉しそう。島村は散歩の途中小豆を打ちながら悲しいほど澄み通った木魂しそうな声で歌っている葉子を見かけます。葉子はその後島村の宿で働き始め、駒子の結び文を持って来たりします。やがて初めて2人で話します。
刺すような美しい目をしていました。
「駒ちゃんは・・可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」
「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」
東京に早く帰った方がいいかも、という島村に、葉子は自分も東京へ「連れて帰って下さい。」と真剣な声で言います。
「少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反って、駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。」
うーん・・としか言えませんねえ・・
別れの予感と葉子への傾倒を島村から感じたのか、駒子は「いい女だよ。」と言われたのを「聞きちがい」をして怒り、部屋を出て行ったりします。
葉子は神出鬼没。美しい幻のように現れたり消えたりします。駒子を可哀想と言ったり、憎いと言ったり。駒子も嫌っているようだし、不思議な存在です。
そして、美しい物語は終局に向かうのでした。
雪の中で糸をつくり、雪の中で織り、雪の水に洗い、雪の中に晒す。雪ありて縮あり。
晩秋の紅葉は🍁終わり、山は雪化粧。長逗留となった島村は越後湯沢から近い、越後縮の里へ1人で出かけます。クライマックスの前、伝統の布を生み出す地が、静かに情緒豊かに描き出されます。このへんのバランスをとても上手に感じます。
寒気が星を磨き出すように冴えて来た夜でした。帰ってきた島村は、駒子と偶然出会います。すると突然、半鐘が鳴り出しました。
「火事、火事よ!」「火事だ。」
火の手が村の真中にあがっていました。活動写真を上映していた繭倉で火が出たらしいのです。2人は繭倉へ急ぎ走ります。星明かりの雪の上に駒子の赤い裾が見えます。
振り仰ぐと、夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている、恐ろしい艶めかしさの天の河。駒子は思わず「きれいねえ」と口にし、島村は天の河のなかへ体がふうと浮き上ってゆく感覚を覚えます。
火事の繭倉に着いてみると、もうたっぷり水を浴びた屋根も燃えていそうに見えませんでしたが、思いがけないところから焔が。火の子を噴き上げます。
「その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。」
いきなり、繭倉の二階から女が落ちます。非現実な世界の幻のようでした。落ちたのは、葉子でした。
横たわった葉子、火明かりがその青白い顔の上を揺れ通い、島村は汽車の中で葉子の顔のただなかに野山のともし火がともった時のことをはっと思い出します。
駒子は島村の傍から飛び出し、葉子を胸に抱えて戻ろうとします。
「その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。」
島村は駒子に近づこうとして、助けに入った男たちに押されてよろめきます。踏みこたえて目を上げた瞬間、
「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。」
これでエンドです。
・・物語を火事で終わる、というのは、映画の世界ではよく使われる手法です。ストーリーを連ねて来て、どう終わるかは作り手の手腕が大きく問われます。すべてを灰燼に帰す焔。
実を言うと、よく分からない部分はそのまま。神出鬼没の幻のような美しい女葉子と、駒子の関係は分からずじまい。なぜ多くの人の中で葉子だけが落ちたのかも分かりません。しかし、駒子との運命を感じる葉子は焔に巻かれます。その強烈なイメージ、迫力は、結び、終わりとして非常に納得感を芽生えさせます。
もう一つ、川端が若い頃、菊池寛はその「ヴィジュアリゼイシヨンの力」を褒めました。冒頭のトンネルを抜けるシーンに始まって、序盤の列車中、窓ガラスへの二重写しの情景があり、そしてラストは雪の中、星の海、天の河に火事の焔の色が映ります。そして葉子の顔で2つの場面がつながります。
物語を読者の頭の中でまさに映像化させる、物語の製作者として、恐ろしいばかりの見事な仕掛けです。
私は、この仕掛けこそが「雪国」の魅力の大部分だと思っていて、加えて惹かれる要素として、冴えた表現があり、幻のような葉子という美しい女があり、という風に受け止めました。島村と駒子の成り行きに関しては実はあまり印象に残りませんでした。再読でもその感想はあまり変わりありません。
なので、巷の書評や研究とはちょっと違うかも知れません。
ちなみにかつて映画では駒子を岩下志麻が、葉子を加賀まりこが演じ、その前は岸恵子の駒子、八千草薫の葉子でした。
ガツッと、かつてなかった力で、私の心は掴まれてしまい、人生が変わりました。。「雪国」は川端の作品の中でも異質な光を放っていると、また、しみじみ感じたのでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿