2020年12月21日月曜日

12月書評の2






12月12日〜14日がふたご座流星群のピーク。
月明かりはなかったが、雲に悩まされる。

12日1コ、13日7コ、14日6コ。

大きくゆっくり飛ぶことが多く、中には人魂のようなものもあった。楽しかった。

この頃、レオンが誤嚥性肺炎となり、ぐったり、ぜいぜいとしているところを病院へ運ぶ。一時はきょう明日をも知れぬ状態からとなったが、奇跡の回復。18歳にしてこの身体の強さは生まれつきかな。

12月21日、つまりきょうはコンジャンクション、木星と土星がとても近接して見える日だ。きのう見たら本当にくっつきそう。肉眼できれいに見えるが、夕方ほんの1時間足らずで山の端に沈むので、見逃さないように気をつけないと。

12月初旬、ついに大阪府が赤信号、不要不急の外出自粛要請を出し、再び在宅勤務に。

どうもペースがつかめず読書もままならない。まあなんとかせなね。このまま年が暮れていく。人的には風情も何もって感じやね。

◼️スティーブン・ミルハウザー

          「ホーム・ラン」


またまた変わった短編集を・・「慣れ」が必要な作家さん?


ミルハウザーは訳出11作めらしい。全く知らなかった。友人が買ったと表紙を見せてくれたのを見てよさそうだなあと予備知識ゼロで借りてきた。


感想としては、うーん慣れが必要かも。先日幻想小説はニガテだけど読みたくなる、Mっ気か、と書いたけど、そういうテイストのを図らずも続けて読んでいる^_^


「ミラクル・ポリッシュ」

「息子たちと母たち」

「私たちの町で生じた最近の混乱に関する報告」

「十三人の妻」

Elsewhere

「アルカディア」

「若きガウタマの快楽と苦悩」

「ホーム・ラン」


8篇。原書では16篇の500ページくらいある本らしいが、日本では半分ずつ分けて出すことにしたらしい。これは前編。


「ミラクル・ポリッシュ」は家に鏡を異常に多く設置してしまう男の話。

「私たちの町で〜」は少年少女に新興宗教的な自殺が流行してしまう町を描く。

「十三人の妻」はホントにある男の13人の奥さんを1人ずつ紹介する。

Elsewhere」は多くの人の家の中で何者かが 動く、という事態が頻発し、この世界の裂け目ではないか、とする、やはり信仰団体のようなものが出来る。

「若きガウタマ」はいわば俗世間からの隔離生活をしている王子ガウタマ・シッダールタことお釈迦さまが外界で修行を始めるまでの話。



それぞれ発想と成り行きは面白いのだが、上手くオチてああエスプリの効いた短編だったね、というものでは全くない。どうも慣れず、時間がかかった。ニガテ感も増したりして。


どれかというと不可思議な展開を描き、解決しないまま、いやな印象を薄く、でも鮮明に心に灼きつけて終わる物語たちである。


うーむ、読んでる人には、またミルハウザーらしいなあ、という本なんだろうか。来年、いわば後編が出るらしいのだが・・読むかどうかはその時の気分に委ねよう。


◼️澁澤龍彦編「世界幻想名作集」


フランケンに黒猫にジキルハイドに変身。横並びにするとまた別の面白さが。


幻想小説はニガテ・・と何度か書いてきたが、それでもこういうタイトルに向かってしまうのはMっ気?^_^


いやいや、幻想小説というかちょっと怪奇小説に近いラインナップ。また有名作ばかりだったから吸引力が強かった。


フーケ「ウンディーネ」

シェリー夫人「フランケンシュタイン」

ホフマン「砂男」

プーシキン「スペードの女王」

ゴーゴリ「鼻」

ポー「黒猫」

スティーブンソン「ジキル博士とハイド氏」

リラダン「ヴィルジニーとポール」

アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」

カフカ「変身」


が収録されている。短いものは全文に解説、長いものははしょったり、概要をまとめたり。澁澤は序文とフランケン、最後の幻想美術という章を担当していて、それぞれの作品の解説はすべて違う人が書いている。


いくつ読んだことがありますか?私はフランケン、鼻、黒猫にジキル。変身はかつて最初で挫折してました。


「ウンディーネ」は水の精ウンディーネが人間の騎士と結婚するがうまくいかず「操を守って」と言い残して去る。しかし騎士は人間の娘ベルタルダと結婚する。掟によりウンディーネは、最後に接吻し、毒の涙で裏切った騎士の命を奪うー。


この物語は後にジャン・ジロドゥーが戯曲「オンディーヌ」のモデルとした。先に読んだ「アラビアンナイトを楽しむために」という本で、阿刀田高氏が「オンディーヌ」を夜話のひとつを紹介する味つけとして引用していたので、ほお、と。つながった感覚だった。


「フランケンシュタイン」は作者メアリー・シェリーの伝記映画「メアリーの総て」を観に行ったな、と。


駆け落ち同然で詩人シェリーと結婚したメアリーは高名な詩人バイロンらとジュネーブ近郊で一時暮らした。ある日余興として怪奇小説を作ろう、ということになり執筆したのがこの作品。


映画中で社会思想家の父とメアリーは街で出逢う。自分のしたことには責任を持て、と言った後、自分に似て本好きの娘に父はこう言葉をかける。


「(創作するなら)自分の心の声を聞け」


単純なセリフかも知れないけれども、なんか心に響いた、なと。


「砂男」は子供の頃砂男に父を殺された男は若者となり、通っている大学教授の深窓の令嬢、美しい顔にガラス玉のような虚ろな眼を持つオリンピアの部屋を望遠鏡で覗くようになり、熱烈に恋するー。


これは尋常ではない感覚と怖さをもつ話で、結末もグロテスク、だが仕掛けの工夫と訳わからなさがけっこう好きで印象的。


「スペードの女王」は男性に恵まれないリザヴェータが恋した工兵と距離を詰めるが、男にはある目的があった、という組み立てに工夫と不思議な面白さのある話。


「黒猫」もグロだし、成り行きは人間的で単純気味だけれど、すへてが猫のうなりに収斂される、その瞬間に緊張と魅力が同居すると思う。


「オノレ」は壁に同化できる男の話。いい感じである。解説でこないだ読んだマルセル・エイメの「壁抜け男」が出てきて少し楽しかった。


最後の「変身」。ふむふむこういう物語だったのね、と。家庭が逆に一致団結するのが面白いというか皮肉というか。


幻想、ではないと思うけど、これら著名な作品はやはり独特の、感じさせる、確固としたものをそれぞれ持っているな、と。横並びにすると特徴が浮き立つようにも見える。


よく考えられていることには感心。やはり名のある物語には、分かりやすくない、味がある。そこがいいな。


怪奇的な絵も豊富に紹介されている。アンリ・ルソーの「蛇使いの女」ドラクロワの「空を飛ぶメフィストフェレス」が良かった。



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12月書評の1







12月初旬、近くの植物園の紅葉が見頃で、プチ観楓。山に住んでるので、そこまで紅葉に興味があるわけではないのだが、お手軽だしやっぱり気分が上がります↑

◼️チャールズ・ディケンズ

「クリスマス・カロル」


この時期、長い間読もうと思っては忘れていた。クリスマスは、寛容になる時節です。


風が少しずつ冷たくなってきて、紅葉も終わりに近づき、街がなんとなく忙しなく見えだす頃、ディケンズの「クリスマス・カロル」を読むのいいんちゃうかな、と思って長い年月が過ぎた。読むときは簡単に手にある感じだなと思いつつ。


さて、クリスマス・イブの日でした。会社経営者のスクルージは孤独な老人。万事に冷酷でケチで文句が多くて使用人の書記にも冷たい。


性格の明るい甥が自分の家庭に誘っても当然お断り。


「親切な気持になって人を赦してやり、情けぶかくなる楽しい季節ですよ。」「・・どうか明日食事に来てくださいな。」


そんなところへ行くよりいっそ、地獄で対面しよう


が答えでした。この甥は凹まずに書記にも丁寧にクリスマスの挨拶をして帰ります。


身寄りのない者たちのために寄付金を、という紳士たちが訪ねてきても、私には関係ないとはねつけます。事務所に向かってクリスマスを祝う歌を歌う者はすごい剣幕で追い払い、書記にはクリスマスに休むことに嫌味を言い、その分翌日は朝早く出てこい、と釘を刺します。


そんなスクルージが夜自宅へ帰ると、なんと7年前に死んだ元共同経営者のマーレイの幽霊が出ます。


自分は慈悲の心なく生きて死んだから、死後は重い鎖を身につけ、休みなく過酷な旅をしなければならない。お前さんにはまだ希望とチャンスがある、これから3人の幽霊が来ることになっている、と話し、闇に飛び去りますー。


さて、3人の幽霊は、それぞれ、過去、現在、未来へスクルージを連れて行きます。決してきれいなだけではなく、つらさ苦しさ、残滓、思わぬ現在をも見て行く旅。読みどころはたくさんあります。



時空の旅を終えたスクルージは、すっかり人が変わります。彼は何を見てどう感じたのでしょうか?


短めの話だと思います。150ページほど。しかし読むのには意外に時間がかかりました。じっくり読まないと分からなかった部分もありました。


もしも過去を映像として見ることができたら、過去同じ時を過ごした人の現在を知ることができたら、自分のいまに存在する人の家庭を視覚的に覗けたら。


物語やマンガでは意外とふつうにあること。冷たい人、頑な人がなにかをきっかけに変わっていくすることも話として珍しくはない。

クリスマスは人に優しくなる時節ー。


でも、空を飛び、過去と現在と未来を本当に見ることができたとしたら、本当に自分は変わるよな、なんて今回考えちゃいました。そう思いませんか?


気持ち良いエンドは読み手の心をも軽くする。シャーロック・ホームズでクリスマスに関係する話でも読もうかな、なんて気も起きた読み終わりでした。



◼️山尾悠子「飛ぶ孔雀」


戸惑いから弄ばれ感へ。最後はこんなもんかな、と思えるから不思議。


それなりに多くの物語を読んでいるが、やはり幻想小説とされるものは苦手な部類に入るかな。泉鏡花「高野聖」は夜の闇にほの光る金色のようなイメージで良かったけれども、たまにこういうのに出会うと霧の彼方に動くような、もしくは広角、ワイドな画面に少し歪む人の絵ばかりを並べたマンガのような感じが、思い浮かぶ。


1部は中之島の広大な庭園。ライトアップもされてけっこうな人出。そこを謎の孔雀が動き回る。


2部はゴンドラで上がる山の上の温泉ホテル。これが十角館なのです。アヤツジ好き?なんて。そのホテル界隈を大蛇がうねる。


登場人物が多くコロコロ入れ替わって分からない。スワン、ミツ、ヒワ、PLら。第2部も女運転士ミツ、セツ、KQに大男トワダ、こっちの方がまとまりあるかな。最後は大蛇の力で?ホテルや施設が大崩壊するようだし。


ストーリーを追うのはあきらめた方がやっぱりいいのか。怪しく、くぐもったような雰囲気にてらてらとした動き。その印象と不思議さに身を任せて最後に、まあこんなのもたまにはいいかも、ってな感慨になるから不思議である。ペリットって?バンカーって結局なに?とか疑問を感じさせるのも意図的なんでしょう。


舞台設定も近代、現代が混交してるかな。語彙豊富でちと古典的。


ファンの多そうな山尾悠子の作品はこれが初。初見がこれで、良かったのか悪かったのか笑。


雪国





前回と同じく、解説したのでまとめ。書評は書いたが、探究までしてなかったので、今回いい機会だった。それにしてもすごい作品だな。

◾️川端康成「雪国」


有名な冒頭に加え、序盤の列車内と終盤の天の河に火があまりにも幻想的で見事。人生変わりました。


ノーベル文学賞選考の対象作品であり、非常に名高い「雪国」。大げさに言えば、私の人生を変えた小説です。つい5年前くらいのことです。そこから私は川端ラブになりました^_^


今回再読して、またコーフンしました。とにかく表現が素晴らしい。多く読んでいる私にしてもどうしちゃったの?文学の神が降りたか悪魔が憑いちゃった?というくらいです。ぎゅーっと良さが凝縮されています。


舞台は越後湯沢。行ったことおありでしょうか、上越新幹線で東京側から行った場合、長いトンネルの後にいきなり山中に入った感覚に襲われます。まだ雪国読んでなかった頃だったんですが、それでもハッとしました。


「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」


チョー有名な書き出しです。景色が変わるのは先の通り。私的には後段の夜の底、が、かなりカッコいいなと気に入ってます。しかし、序盤、書き出しだけではありません。


この物語の主人公の舞踊批評家・島村。その座席の向かい側にいる娘が窓を開けて叫びます。雪国の冷気が入ってきます。


「駅長さあん、駅長さあん」


美しい声、これがヒロインの一人、葉子でした。葉子は弟が鉄道に勤めていて、駅長さんとも顔見知りなのでした。


葉子は向かい側の席で寝ている病気の男を献身的に看病していました。


「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」


きゃーアダルト。訴えないで下さいねー。「伊豆の踊子」の直後に「雪国」を読むと、序盤ちっとオトナのテイストがあるので途惑います。まあそこは主眼じゃありません。


で、その指で窓ガラスに線を引くと、葉子の片眼が浮き出て、島村はびっくりします。もう完全に話の暗示ですね。読み進めると分かってきます。


葉子は「涼しく刺すような」美しさでした。島村は外を見るため、というフリをして曇ったガラスを拭き、ガラスに映る葉子の様子を眺めます。その背景にはやはりガラスに映った夕景が重なり、夕景色の流れの中に娘が浮んでいるように思われます。二重写しになってるんですね。


そして暗くなり、葉子の顔のなかにともし火がともり、流れて通ります。娘の眼と火とが重なった瞬間、妖しい美しさを放つのでした。


ここまで、正直最初にがつっと掴まれました。電車の窓の二重写しは誰もが経験したことのあるもの。雪国の夕景と山村のともし火、そこに刺すような美しさの女がいれば完璧です。ちょっと作りすぎのような気はしないでもないですが、実際に十分あり得るシチュエーション。冒頭の幻想的な美しい光景が、この作品の大きな魅力の一つであるといっても過言ではないでしょう。


さて、島村は恋仲の駒子という20歳の若い芸者に逢いに来たのでした。ちょっとはっちゃけた、そしてほんの少しの狂気を宿したようなところもある駒子。島村は妻子が東京にいます。


のほほんとした身分、小太りの島村は新緑の季節に駒子と知り合い、最初に部屋に遊びに来た時、なんと金で抱ける芸者を紹介しろ、と持ちかけます。まあいるにはいるんですが、強烈で失礼ですよね。でも駒子は島村に想いを寄せます。島村もまた、駒子の清潔さ、美しさに惹かれます。


最初の方の、駒子の描写。


「細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ脣はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで・・濡れ光っていた。目尻が上りも下りもせず、わざと真直ぐに描いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。少し中高の丸顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいてないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。」


清潔、は何度も出てくる駒子のキーワードです。


駒子はお座敷を抜け出して、夜の10時ごろ、酔って島村の部屋に来ます。とりとめもなくりしゃべり、またお座敷に戻る駒子。正体ない様子で戻ってきて、島村にもたれかかり、なんと自分の肘にがぶりと噛みつきます。そのまま一晩、島村の部屋で過ごします。


「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」


「『私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。』などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。」


駒子は朝に帰ります。その日島村は東京へ帰りました。


そして冒頭に続くこの2回目の訪問の時、葉子が登場し、物語は大きく動きます。


島村の2回めの訪問は年の暮れでした。目的はもちろん駒子に会うことです。駒子は、島村と初対面の時、東京へ売られ、お酌をしているうちに受け出され、ゆくすえ日本踊の師匠として身を立てさせてもらくつもりであったところが、一年半ばかりで旦那が死んだと素直に話しています。


つまりお金持ちのお妾さんになったが、その男が死んだということですね。で、故郷の港町に帰りました。前は芸者見習い、手伝いのような立場だったのが、今回は芸者になっていました。


駒子と再会した島村は、駒子が十五、六のころから読んだ小説のメモを全部雑記帳に書き留めておく、というのを聞き、「徒労だね」と言い捨てます。しかし、そんな言葉を叩きつけると、かえって彼女の純粋さに惹きつけられます。この徒労だね、という部分は、全編を貫いている雰囲気として書評でよく取り上げられるようですが、私はもひとつピンと来ませんでした。


夜中、一緒に風呂に入って明け方、駒子の頰の赤い色に見惚れます。ここの描写もなかなかです。


「島村はその方を見てひょっと首を縮めた。鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頰が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさだった。

もう陽が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。」


飛ばしてますねー。またハマっている。本当にこの物語はそんな表現が多いのです。


駒子が家に寄れ、と言った際、島村は訊きます。病人がいるだろう、と。島村が来る列車の向かいにいて、葉子に看病されていた男は駒子のお師匠さんの息子・行男で、あの日駒子が駅に行男の迎えに来ていたことを島村は知っていたのでした。駒子は、男は東京に出ていたが、腸結核で故郷へ死にに帰った、と話します。


部屋を出るとき、突然美しい声の葉子が顔を出します。病人の看護をしていたのでした。島村は艶いた美しさを葉子に感じます。


島村はその後頼んだ女の按摩師に、駒子は行男のいいなずけで、この夏芸者に出てまで治療費を支払ったのだと知らされます。駒子に聞くとお師匠さんが幼馴染の2人の縁を望み、やむなく、と。行男への気持ちはないようです。


だんだん真実が明るみに出ているのかちょっとこんがらがってるのか、その中間くらいですね。


東京に帰る時、駒子は駅まで送ってきます。そこへ葉子がかけつけます。


「ああっ駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん」


危篤の報。駒子はガンとして帰りませんでした。島村を見送りたい、人が死ぬのなんか見るのはいやだ、と。島村も説得しますが、聞き入れません。


3回めに島村が来たのは紅葉美しい秋でした。なんちゅう間の開き方。


駒子は文句を言いながらもやはり嬉しそう。島村は散歩の途中小豆を打ちながら悲しいほど澄み通った木魂しそうな声で歌っている葉子を見かけます。葉子はその後島村の宿で働き始め、駒子の結び文を持って来たりします。やがて初めて2人で話します。


刺すような美しい目をしていました。


「駒ちゃんは・・可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」

「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」


東京に早く帰った方がいいかも、という島村に、葉子は自分も東京へ「連れて帰って下さい。」と真剣な声で言います。


「少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反って、駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。」


うーん・・としか言えませんねえ・・


別れの予感と葉子への傾倒を島村から感じたのか、駒子は「いい女だよ。」と言われたのを「聞きちがい」をして怒り、部屋を出て行ったりします。


葉子は神出鬼没。美しい幻のように現れたり消えたりします。駒子を可哀想と言ったり、憎いと言ったり。駒子も嫌っているようだし、不思議な存在です。


そして、美しい物語は終局に向かうのでした。


雪の中で糸をつくり、雪の中で織り、雪の水に洗い、雪の中に晒す。雪ありて縮あり。


晩秋の紅葉は🍁終わり、山は雪化粧。長逗留となった島村は越後湯沢から近い、越後縮の里へ1人で出かけます。クライマックスの前、伝統の布を生み出す地が、静かに情緒豊かに描き出されます。このへんのバランスをとても上手に感じます。


寒気が星を磨き出すように冴えて来た夜でした。帰ってきた島村は、駒子と偶然出会います。すると突然、半鐘が鳴り出しました。


「火事、火事よ!」「火事だ。」


火の手が村の真中にあがっていました。活動写真を上映していた繭倉で火が出たらしいのです。2人は繭倉へ急ぎ走ります。星明かりの雪の上に駒子の赤い裾が見えます。


振り仰ぐと、夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている、恐ろしい艶めかしさの天の河。駒子は思わず「きれいねえ」と口にし、島村は天の河のなかへ体がふうと浮き上ってゆく感覚を覚えます。


火事の繭倉に着いてみると、もうたっぷり水を浴びた屋根も燃えていそうに見えませんでしたが、思いがけないところから焔が。火の子を噴き上げます。


「その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。」


いきなり、繭倉の二階から女が落ちます。非現実な世界の幻のようでした。落ちたのは、葉子でした。


横たわった葉子、火明かりがその青白い顔の上を揺れ通い、島村は汽車の中で葉子の顔のただなかに野山のともし火がともった時のことをはっと思い出します。


駒子は島村の傍から飛び出し、葉子を胸に抱えて戻ろうとします。


「その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。」


島村は駒子に近づこうとして、助けに入った男たちに押されてよろめきます。踏みこたえて目を上げた瞬間、


「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。」


これでエンドです。


・・物語を火事で終わる、というのは、映画の世界ではよく使われる手法です。ストーリーを連ねて来て、どう終わるかは作り手の手腕が大きく問われます。すべてを灰燼に帰す焔。


実を言うと、よく分からない部分はそのまま。神出鬼没の幻のような美しい女葉子と、駒子の関係は分からずじまい。なぜ多くの人の中で葉子だけが落ちたのかも分かりません。しかし、駒子との運命を感じる葉子は焔に巻かれます。その強烈なイメージ、迫力は、結び、終わりとして非常に納得感を芽生えさせます。


もう一つ、川端が若い頃、菊池寛はその「ヴィジュアリゼイシヨンの力」を褒めました。冒頭のトンネルを抜けるシーンに始まって、序盤の列車中、窓ガラスへの二重写しの情景があり、そしてラストは雪の中、星の海、天の河に火事の焔の色が映ります。そして葉子の顔で2つの場面がつながります。


物語を読者の頭の中でまさに映像化させる、物語の製作者として、恐ろしいばかりの見事な仕掛けです。


私は、この仕掛けこそが「雪国」の魅力の大部分だと思っていて、加えて惹かれる要素として、冴えた表現があり、幻のような葉子という美しい女があり、という風に受け止めました。島村と駒子の成り行きに関しては実はあまり印象に残りませんでした。再読でもその感想はあまり変わりありません。


なので、巷の書評や研究とはちょっと違うかも知れません。


ちなみにかつて映画では駒子を岩下志麻が、葉子を加賀まりこが演じ、その前は岸恵子の駒子、八千草薫の葉子でした。


ガツッと、かつてなかった力で、私の心は掴まれてしまい、人生が変わりました。。「雪国」は川端の作品の中でも異質な光を放っていると、また、しみじみ感じたのでした。

伊豆の踊子





川端の作品を解説する機会があり、まとめたのでこちらにも転載。色々調べたりもして、楽しかった。

◼️川端康成「伊豆の踊子」


書き物をして解説する用があり、再読、ちょっと深掘りしました。めっちゃ長くなりました。ストーリー追いかけ編と、ちょっとした解題編でお送りします。


【ストーリー追いかけ編】


川端が27歳で発表した、タイトルだけなら知名度抜群、「伊豆の踊子」です。


これが短い。新潮文庫版では、表紙を入れても7P〜41Pまで。しかしながら何度も映画化され、愛されて今に至っています。やはり短い話の方がベタに読まれやすいのかも。


さて、主人公は私、川端ですね。旧制一高生で20歳。冒頭が鮮烈で、「雪国」ほど有名ではないにしても、私は好きです。


「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」


麓から峠へ雨が追ってくる。山の雨の降り出し。鬱陶しいはずなのに、どこか爽やかささえ感じさせます。


主人公の「私」は制帽を被り、紺飛白(こんがすり)の着物に袴、高下駄姿。1919年、大正時代です。


お茶屋に着いた時、すでに出逢っていた旅芸人の一行と再会、あの踊子、薫がなにくれと世話を焼いてくれます。


「踊子は十七くらいに見えた。私には分らない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形の凛々しい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪を豊かに誇張して描いた、稗史的な(はいしてき・中国の歴史小説風な)娘の絵姿のような感じだった。」


最初に出てくる薫の描写です。後で分かるのですが、旅芸人だから、お座敷映えが良いように、大人風の女に見えるように仕立ててるのであって、実際は14歳です。


旅芸人の一行は、若い男・栄吉と40代くらいの女、名前は出てきません。「四十女」と書かれています。四十女の娘で、栄吉の妻千代子、17歳の百合子は血縁関係がなく雇いの女、そして薫は栄吉の妹、とのことでした。四十女がリーダーで薫に三味線を教えるシーンが出てきます。


四十女はまた、薫が可愛いことに神経を尖らせています。行きずりで変な虫がつかないようにですね。「私」には愛想が良いものの、警戒の対象から外しているわけではないようです。


「私」は栄吉と仲良くなり、旅程の同道を申し入れ、四十女にも快諾されます。最初の夜、当時賎しい身分と取られていた旅芸人は木賃宿に泊まり、「私」は別の温泉宿へ。私は、激しい雨の向こうに賑やかな声を聞きつけ、旅芸人たちがお座敷に呼ばれているのを知ります。そして、宴会が終わって静まり返り、雨の音だけが響く中、「踊子の今夜が汚れるのであろうか」と悩ましく過ごします。


そして翌朝、話中でも代表的なシーンにゆくりなくも巡り会います。


栄吉が朝訪ねて来て、2人は連れだって湯に入りに行きます。すると川向こうの共同浴場に旅芸人の一行が入っていました。


「仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った」


「私」はその無邪気な姿に、昨夜の心配が霧消したかのように子供なんだ、と思い、頭が拭われたように澄み、微笑がいつまでもとまりませんでした。


ここはダイレクトで象徴的なシーンです。少女の無垢さを目の当たりにし、心が洗われます。評論家の中にはこのシーンを境に、「私」は薫を、女ではなく、子供と見るようになったという人もいるようです。


一行は伊豆大島から出てきており、節約してはいるものの、暮らし向きが厳しいというほどではないようです。


翌日、旅芸人一行たちの木賃宿の隣で鳥屋をしている男がご馳走すると娘たちを呼び、薫たちは喜んで行くのですが、鳥屋が薫の肩を軽く叩いた瞬間、四十女、この辺からなぜか呼称が「おふくろ」に。の顔が恐ろしいものに変わります。


「こら、この子に触っておくれでないよ。生娘なんだからね」


薫は鳥屋に「水戸黄門漫遊記」を読んでくれとせがみましたが、気を悪くしたのか、鳥屋は向こうに行きます。「私」が講談本を読むことになりました。「私」の肩に触るほどに顔を近づけて聴く薫。


「美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊子の一番美しい持ちものだった。二重瞼の線が言いようなく綺麗だった。それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うと言う言葉が彼女にはほんとうだった」


賛美の極致ですねー。恋する感情もあったでしょうけれども、目の前の美しさに敏感に素直に感じ入って圧倒されているように読めます。「私」の若さも感じたりしますね。


「私」が帰る時、踊子は下駄を揃えて、こう言います。


「ああ、いいお月さま。明日は下田。嬉しいな。赤坊の四十九日をして、おっかさんに櫛を買って貰って、それからいろんなことがありますのよ。活動へ連れて行って下さいましね」


可愛いですね。しかし。


四十九日とは千代子が旅の空で赤子を産み落とし、まもなく亡くなってしまったことを指しています。


翌日、一行は下田まで五里の山道を歩きます。「私」と薫はどこかかみ合わなくも、あれこれと話をし、薫は「私」の袴の埃を払ったり、杖がわりにする竹を引っこ抜いて持って来たりと私に対して明るく献身的に振舞います。「私」と薫の交流を象徴するシーンでしょう。


栄吉と歩いている時、後ろで薫がいい人ね、と話しているのを聞いて、「私」はその言葉に感動します。


「二十歳の私は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有り難いのだった」


と述懐します。


私は旅費がなくなり、翌日の船で帰らなければなりませんでした。下田に着き、千代子と百合子を活動、弁士がつく映画ですね、に誘うと、歩き疲れた2人は行くと言いませんでした。薫はおふくろに縋りついてせがみます。おふくろは「私」と2人で行かせることを承知しません。栄吉も首をひねりますが、おふくろにはやはり警戒心があったのですね。


「私」は一人で女弁士が喋る活動に行きましたがすぐに帰ります。涙をぽたぽたと落としていました。


翌朝、栄吉だけが港まで一緒に行きます。乗船場に来てみると、海際に薫がうずくまっていました。なにかと話しかけましたが、視線を落とし、こくりこくりとうなずいて見せるだけでした。


乗り込もうとして振り返った時、踊子はさよならを言おうとしてやめ、ただうなずいて見せます。そしてずっと遠ざかってから、ようやく白いものを振り始めました。


劇画的ですね。細かく動作を描いています。重要な場面です。薫の態度には、おふくろになにか言い含められたのではないか、なんて想像してしまいます。


私は読むたびに、ここからのラストの描写が、なかなか印象的だと思います。


ざこ寝の船室で寝転がり、涙をぽろぽろ流す「私」。隣にいた、おそらく一高の入学準備に行く少年が、制帽姿の「私」に好意を持って話しかけます。


「『何か御不幸でもおありになったのですか』

『いいえ、今人に別れて来たんです』

私は非常に素直に言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった」

「肌が寒く腹が空いた。少年が竹の皮包を開いてくれた。私はそれが人の物であることを忘れたかのように海苔巻のすしなぞを食った。そして少年の学生マントの中にもぐり込んだ」

「真暗な中で少年の体温に温まりながら、私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった」


これで締まります。少年の学生マントに入り、くっつき合ってその体温であったまってるわけです。不思議な違和感と、逆にほっとするところがありますよね。そう思いませんか?私だけかな。


薫の無垢さと美しさに触れ、「私」の境遇による運命、思い込みも含めてこわばっていた心がほぐされ、その感動の日々の終わりに惜別の情を感じ、終焉そのものの美しさにも感無量となっているように見えます。


さて、伊豆の踊子、主筋を紹介して来ましたが、いかがですか?細やかな表現はありますし、付随的なエピソードもあります。ただ全体的には穏やかな物語です。私もそう感動した、とかいうわけではありませんでした。


仲の良い師弟でライバルの三島由紀夫は解説で「川端氏の全作品の重要な主題である『処女の主題』がここに端緒の姿をあらわす」としています。処女性、というのは性的な意味ではなく、その年齢特有の純真さ、少女性を言っていると思います。川端がロリコン気味であることは否定しませんが笑、小説全体を通したその表現はやはり卓越していると思います。


「伊豆の踊子」は生い立ちによる葛藤を癒す、いやそれだけには全然とどまらず、もひとつ三島の言葉を借りると、「若さそれ自体の未完成の美」の塊のように感じます。若い頃の美しい印象をまるっと残す話。


だから、個人的にはあまり深く考えず、川端がストーリーに込めたものを素直に受け取ればいいのではと、それで十分すぎる特別な小説だ、と私的には思うのです。


【ちょっとした解題編】


「伊豆の踊子」について書くにあたり、あれこれwebページなんかを見ていたら、けっこう情報がつながったので、解題を設けようかと思いました。まあ気楽に読んでください。


「伊豆の踊子」は最初踊子と出会ってから通い詰めた湯ヶ島温泉、その思い出をまとめた「湯ヶ島での思ひ出」(24歳時に執筆)から踊子部分を抽出し、小説化したものです。


んで、「湯ヶ島での思ひ出」を読んでみようと思ったら、川端自ら焼却しちゃったらしい。さらに探したら、全集にある「少年」という随筆に引用がある、というので図書館行って当該巻を借りてきました。


「伊豆の踊子」についての記述は多くはないのですが、まずはこんな感じ。


「初めての伊豆の旅は、美しい踊子が彗星で修善寺から下田までの風物がその尾のやうに、私の記憶に光り流れている。」

「太鼓を下げた踊子が遠くから目立っていた。」


親しくなる前に旅芸人の一行と行き当たり、その中で薫に目を惹かれた、ということなんですね。彗星のように、とはまたメルヘンなのか川端一流の感じ方なのか。いやー、実物の写真が見たかった。


2回目の湯ヶ島訪問。右脚の痛みを湯治で癒そうと赴きましたが山中で道に迷い、ずぶ濡れになって宿に着いた時、記憶が・・

「燈火弱く森閑とした宿の玄関に立って、私は苦笑した。前の年の秋、そこで踊子が踊っていたのである」


やはりずいぶんと鮮烈ないい想い出となっているようです。


で、なぜラストに泣いたか、これははっきりと書いてます。


踊子と別れて涙を流したのは


「あながち踊子に対する感傷ばかりではなかつた」


「踊子はものごころつき初めた日に、女としての淡い戀心を私に動かしてくれたのではなからうかと、下らない気持ちで踊子を思ひ出す」


川端は、自分のことを、幼少から世間並みでなはなく、不幸に不自然に育って来たためにかたくなでゆがんだ人間になっていると苦に病んでいました。しかし少年らしい甘えた感情があって、自分で誇張していたもので、苦に病んでいたほどではないと今回の旅で気づきます。


そしてそれが、「人々が私に示してくれた好意と信頼のお蔭である」で、「同時に私は暗いところを脱出したことになつたのである」と。


そして、踊子とその兄嫁、薫と千代子ですね、のやりとり、薫が川端のことを「いい人ね」と言って千代子がうなずいたことが本当に嬉しかったようです。


「汽船の中でも、いい人と踊子に言はれて満足と、いい人と言った踊子に対する好感とで、こころよい涙を流したのである」


微笑ましいですが、ここもちょっと自己陶酔的。でもそれも含めて若さを感じます。


川端は、22歳の時、カフェの客と女給として出会った15歳の伊藤初代と婚約しますが、「私にはある非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。(以下、中略数回)どうか私のようなものはこの世にいなかったものとおぼしめして下さいませ。さらば。私はあなた様の幸運を一生祈って居りましょう。私はどこの国で暮すのでしょう。お別れいたします。さようなら。」


という衝撃の手紙が送られてきて破局に至り、大きな打撃を受けました。


川端自身は、「湯ヶ島での思ひ出」では初代のことを意識していたが、「伊豆の踊子」の薫に、初代との恋は反映されていないとしているとか。この部分は「少年」にはないのでどこかの読みかじりです。ちなみに川端は執筆のころ後の夫人・秀子と出逢っています。


「少年」には、こんな文もありました。


「そのある冬は、人の不可解な裏切りに遭って潰えようとする心を辛うじて支へてだった。ひきよせられるのは郷愁と異らない。」


この部分の解説は知りませんが、普通に読めば、伊藤初代のことですね。読み進めると、ありました。この部分は四緑丙午の女のことだ、と。婚約が破れたと書いてあります。丙午の女、とは「初恋小説集」という本で初代のことを指して、よく出てきたフレーズです。


「伊豆の踊子」を読む限り、初代の面影はなさそうとも思えますが、あんな強烈な恋の体験、その相手への意識、がまるで入っていないのは、やはり不自然にも思えます、というところでしょうか。この作品で、初代との破局でできた傷も癒されたのでしょうか?


さて、ラストの描写について、ですが、

実はこのころ同性愛者だった、と川端は自ら告白しているんですね。なんというか、肉体関係はなかったようですが、中学の寮は並べて布団を敷いて寝る部屋で、だいぶ身体的なふれ合いはある感じだったようです。寄宿舎同室の清野、という下級生が川端の一番のステディだったみたいで、「少年」にはだいぶ当時の手紙と日記が引用してあり、まあボーイズラブですね、ホンマに。


そう思うとラストの自然さもうなずけます。ははは。でもいい感じであることは変わりません。


川端は一高の寮に入ってなじめなかった、というのは清野との生活とのギャップ、初めての東京暮らし、というのもあったでしょう。まだ19歳。ムリもないですね。


中学校の頃は美少年にも興味があり、町の医院の美人の娘にも関心がある、という状態だったようです。


女性とふつうに会話したり、女性が恋愛対象になったりしたのはこの旅行後、学友とカフェなんかに行くようになってからだと思われます。


ちなみに、清野とは、中学を卒業して、

川端が東京の一高に入っても手紙をやりとりしていました。卒業して3年後、22歳の時に京都・嵐山にある清野の実家を訪れます。清野の実家は、宗教団体の道場でした。清野は喜び、1ヶ月でも逗留して、というつもりでしたが、宗教の修行に打ち込む清野を見て、川端は違和感を覚え3日目に固辞、以来会ってないとのこと。こちらの恋も終わったんですね。


11月書評の5





気がつけば、ちょうど1ヶ月さぼってしまっている。このころ何したかな、と思い出せない。

コロナ患者が増えて、休みにも遠出と三宮などの都会へは外出を控え始めたころ。

秋に遊んでおいて良かった状態。

◼️町田康「夫婦茶碗」


なんだかどうでもよさそうなんだけど、名だたる賞を獲ってる人だよね、と。


町田康2作め。正直あまり感想は変わらない。でも世間では評価され、まくってるといっても過言ではないでしょう。


この方、野間文芸新人賞、芥川賞、萩原朔太郎賞、川端康成文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞を獲っている。私が最も評価するのは野間文芸新人賞&文芸賞。これは候補には上がるけどなかなか取れない、といった作家さんが多いイメージ。


100ページくらいの作品が2つ。


「夫婦茶碗」は夫婦の関係と会話が多少面白いけど、破滅的すぎ。

「人間の屑」は成り行きがよく分かって、あはははバカだねぇと笑える部分もあるし、面白いっちゃ面白いけどねえ・・やっぱ破滅的で・・という感じである。


なんというか、ようはあまりマジメに働かない主人公がハチャメチャで笑える物語を辿って行く場合が多い。ナンセンス、スラッティック?んで、国語や雑学に詳しい方らしく、時折、おっ、とうまく読み手の心に馴染む例えや歴史関連の、えっ知らんぞ的なフレーズが入ったりする。映画化された「人間の屑」のラスト、


「それにしても敵は多勢である。自分は、平家十万の軍勢を蹴散らした、旭将軍木曾義仲の火牛の計の逸話を連想しながら『わぎゅう、僕は和牛だ」と絶叫し・・」


まあこんな感じ。なかなかシブい。


評価されるのは分からない話ではない。解説で筒井康隆もだいぶ褒めている。文人からすると、あまり後先考えないように見せかけてハチャメチャをやる、というのは憧れを覚えるのだろうか、もしくはホッとするのか、芸が文学に見えるのか。


私にはいまのところ高尚すぎて分からないかも。また機会があれば読むでしょう。


◼️佐藤泰志「黄金の服」


響くものは、函館という地のビブラートを得てより強く鳴る。なにか、があるのを楽しむ。


うーんよく分からない見出しになってしまった笑。佐藤泰志の小説は、次々と映画化された。「海炭市叙景」「きみの鳥はうたえる」「そこのみにて光輝く」そしてこの本に収録されている「オーバー・フェンス。」


はっきりとは書いてないが、函館市という、かつて造船所の労働争議があり、うらぶれたような、でもどこかメロウな港町、をモデルにした街で暮らす人の生の姿を描いている。


主人公は特にインテリっぽくなく、出てくる女も不安定なものを抱えている。物語の成り行きによって光は見えるものの、明確な将来があるわけではないってな感じかな。


20代前半の白岩は、東京から帰ってきて、職安で勧められた職業訓練校の建築科に入学する。同年代で気の合う代島、年下で明るい健一、元は暴走族のシマ、情緒不安定な元自衛隊の森、30代後半で左手小指が欠けている原さん、すでに孫のいる勝間田さんら年齢層が幅広く、事情を抱えたメンバーは、やがて来る科対抗のソフトボール大会に向けチームを組む。白岩もまた挫折を経験し、帰ってから両親には会っていなかった。そんな中、白岩は飲みに行った際、代島からさとし、という女を紹介される。(オーバー・フェンス)


この話に限れば、バラエティに富んだメンバー、それぞれの事情、ソフトボール、女性との絡み、鬱屈したものとの向き合い方、など、シロウト目にも映画化したくなる要素が揃っているように見える。


構成要素もそうだが、佐藤泰志が描きたいもの、は読み手を惹きつける、と思う。で、今回はそこに函館という土地の描写が、上手な増幅装置として働いている。


故郷の函館、北ならではの旅情も醸し出すが、著者の描き方、捉え方、表現のさりげなさは読んでいてなかなか唸るものがある。弦楽器を弾くとき、ビブラートをかけて響きを揺らす、そんな感じ方で染み込んでくるようだ。


残念だが、収録されている、函館を前面に出してない他の2編はどうもなにかが抜けているようで、読むのに時間がかかった。



いつもこんなにキャストが多いわけではないし、今回は秩序立った話かなという印象もある。いずれにしてもやはり佐藤泰志は読者が咀嚼し飲み込んだあと舌に長く味か残るような、複合的な味の果実を持っている。


他にも函館もの、あるのかな?


余談だが、佐藤泰志ものを読んでると、佐藤隆の「マイ・クラシック」という歌がなぜかBGMとして頭の中にかかる。んー、昭和レトロっぽいテイストを頭が求めてたりして。