
今月から毎週書評をアップすることにした。まとめてアップする方がのちの検索をやりやすくはあるが月始めの作業負担が大きい。日記の代わりにもなることだしやってみようかと。
写真は珍しい、低い虹。見えるかな?
今年ここまでは暖冬。去年の今ごろは最低0度最高5度とかが続いて本当に寒かった。今週は寒くても昼には8度くらいになるからまだマシと言い合っている。三寒四温の、春のローテに入ってるような気もする。明日は雪だとか。
四大陸選手権、紀平梨花の逆転優勝に快哉。世界も大物の予感を嗅ぎ取っている?まだまだオリンピックまでは長いし、ゆーても四大陸。来月の世界選手権に期待。
◾️黒岩重吾「剣は湖都に燃ゆ 壬申の乱秘話」
緊張感高まる中、大海人皇子の舎人たちの恋物語。面白かった。
天智天皇は都を近江大津宮に遷し、弟の大海人皇子を皇太弟、後継者と見なしたが次第に息子の大友皇子へと気持ちが傾く。手段を選ばず邪魔者を消す兄に身の危険を感じた大海人は自ら出家して吉野離宮へ落ちる。しかし、東国美濃の自分の領地で挙兵する意を固めていた大海人と疑惑の目を向ける近江大津。互いに多くの間者を放つ一方で大海人は近辺の豪族を取り込むべく舎人たちを派遣する。
そんな時代背景、前提をもとに
「黄泉の国は春の地に」
「夜明け前」
「近江御前試合」
「湖の影」
「阿騎野に燃ゆ」
といった50ページほどの5編が展開されている。それぞれ豪族へのアプローチや間諜を命じられた舎人たち。絶妙なバランスの、任務の遂行と悲恋。
壬申の乱前夜ー。
大海人皇子の舎人で吉野に付き従った渡来系氏族の書首根麻呂(ふびのおびとねまろ)は奈良・宇陀の山人族を味方につけるべくその長おおくにの元へ通っていた。ある日根麻呂はおおくにのところでよねという娘と出会い気に入るが、おおくには根麻呂を誘惑したとよねを閉じ込め、許すためには、監禁小屋の見張りをしている屈強な男を倒せという条件を出す。(黄泉の国は春の地に)
「夜明け前」はダブルスパイの男女の哀しい結末、「近江御前試合」は日本書紀にも名前が見える勇猛な武人、大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)が近江大津側の武将・智尊と勝負する、唯一女人のからんでない話。爽やかな哀しさが漂う。「湖の影」は連絡係に退屈した男が通信のための竹筒をつるす女を助け、恋に落ちる。この作品は夜が中心の物語で、夜の闇濃い湖や大津の宮が長めに描かれていて、不安やストレス、局面の不穏さ、などを煽っているのが印象的。ラストの「阿騎野に燃ゆ」には救われたような気持ちになる。
ピンと張りつめた雰囲気の中、ほどよく劇画的で、色も人情も冷徹さも出したストーリー。変化もついている。結末がまた虚しく悠久さを感じさせる。
壬申の乱前後は白村江の戦いに大敗し、外国が侵略してくるのでは、という波乱の時期である。壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇となり飛鳥へ移る。
この時代は日本書紀にも記されており、国際的、国内的にきな臭い、緊張感あふれる時代。後の幕末のようだ。個人的に黒い、でもロマンあふれる雰囲気を持っていると思う。
こちらの書評を読んでいつか、と思っていたのを入手。古代ものの時代劇短編、という感じで、今の嗜好にもスコンとはまって、良かった。
◾️トレイシー・シュヴァリエ
「真珠の耳飾りの少女」
名画モデルの少女が、動き出す。
もうすぐ関西でフェルメール展があるからと読んでみた本。タイトル通り「真珠の耳飾りの少女」が主人公。あの、大きな瞳の、青いターバンのようなものを巻いた少女が不意をつかれたように振り返っている絵。内容はとても思春期の女子らしい心理描写で鬱屈した暮らしの中の光、という感じだ。
タイルに絵を描く職人の娘、16歳のフリートは貧しさからフェルメール家の女中となる。大きな目をした賢いフリートはやがて画家から絵の具作りを頼まれ、妻子も立ち入れないアトリエの屋根裏部屋で寝起きするようになる。
女中の先輩タンネケ、フェルメールの妻カタリーナ、意地悪な女の子コルネーリアらの嫉妬を買い、家の中で味方のいないフリート。
フェルメール家で暮らし始めたフリートは日曜日に帰ることができる近くの実家にも違和感を覚え始める。そして実家には恐ろしい疫病が襲いかかる。
さらにフリートに想いを寄せる肉屋のピーターにとまどい、フェルメールのパトロン、ファン・ライフェンは欲望もあらわに露骨にフリートにせまる。画家の旦那様も含めて男性たちがフリートの心をかき乱す。
やがて絵のモデルとなり画家と幸せなひとときを過ごすがー。
フリートの淡々とした語りでストーリーが進む。そこにはいやおうなくストレスを受け止めなければならない十代後期の当惑、いらだち、孤独感が充満している。生活、女としての成長による避けがたいもの。物語のベースにはアンニュイで不安定、追い詰められた閉塞感が漂う。
フェルメールといえば、光というイメージである。個人的には描かれているものよりも、光で対象を表していることに気が向く。
もちろん黄色や青、フェルメールブルーと言われる色も心地よく訴えてくるし、絵のバランスも整っている。感覚的にも美しい。でも数ある光を意識した絵の中で、こんなに鮮やかな印象を残す光も珍しいと思う。
現状と未来に漂う閉塞感で塗りつぶしているからこそ、ときおり描かれる光の表現が活きるのだろう。
と、ここまで書いたが、この話は映画向きかな、と思ってしまった。少女心理をテーマにしたものは嫌いではない。が、特に海外ものに見られる、物憂げなこの手のストーリー立て小説は苦手めかな、と。
この作品には「牛乳を注ぐ女」「水差しを持つ女」「女と二人の紳士」「合奏」「真珠の首飾りの女」が出てきて楽しい。「真珠の耳飾りの少女」頭に巻いている布や耳飾りについても触れられているし、ほかの絵の部分についてもエピソードが盛り込まれている。
家族やフェルメール家の間取りなどは史実に近いそうだが、フィクションもまた多い。
「真珠の耳飾りの少女」が頭に巻いているターバンのようなものは当時のオランダの風俗にはないそうで、東洋風だという。また、多くの絵のモデルは不明のようだ。
ベースは苦手めだったし、フェルメール本人がシャンとしなさすぎのところは釈然としなかったりする。
でも、絵の具作りや採光ほかフェルメールの絵を充分に意識した作りはかなり楽しめた。時代背景も取り巻く人々も展覧会の前のいい予習になった。
「真珠の耳飾りの少女」はモチーフと光と色が調和した、やはり目立つ絵だと思う。あの、びっくりしたように振り返ったところがいいよね。
◾️小田島雄志「シェイクスピア名言集」
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
タイトルの通り、シェイクスピアの劇中の名言をテーマごとに100個集め、解説を施したもの。1つを2ページで完結している。シェイクスピア研究者の著者が半ばすぎまでは深い意味合い、そして著者自身の身の回りの出来事基づいてオチをつけて終わる構成。
冒頭はもちろん有名な
To be, or not to be,
that is the question.
「ハムレット」の台詞である。小田島氏はこのフレーズに続くハムレットの言葉からto beとはこのまま運命に耐えて生きることであり、not to beとはこのままであることをやめ、運命と闘うこと、闘えば人間は敗れて死ぬ定めにある。現状維持か死を賭した現状打破かの二つの道にハムレットは想いを馳せている、と述べ、冒頭のように訳したと読める。あいまいな広がりを持った言葉だと。
私が読んだ新潮文庫版は「生か死か、それが疑問だ」となってた気がするし、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」はよく言われる。いやもちろんシロートだが、どれもしっくりこない。実は。でも意味合いとしてはとても似通っているとは思う。
シェイクスピアはここ2年で、彼が書いた37編のうち15くらいは読んだだろうか。比較的容易に手に入る新潮文庫版をほとんど読んだいま、持ち運びにも薄い文庫本が好ましいため全集などには手をつけず最近は読んでない。今回はこういう場面があったなあ、とかまだ読んでないこの話は面白そうだな、とか感じながら読み進めた。
「アントニーとクレオパトラ」で
「あれは私の若葉の時代。分別は青くさく、情熱も湧き立たぬころの話だわ」
My salad days , When I was green in judgement, cold in my blood.
というクレオパトラの台詞、サラダデイズ、というのが小粋だと思ったり、
「マクベス」のマクベスをそそのかす魔女の言葉
「いいは悪いで悪いはいい」
Fair is foul, and foul is fair.
きれいはきたない、きたないはきれい、も含めて絶妙さを感じたり、
「ヴェニスの商人」のシャイロックの
「ユダヤ人には目がないか?手がないか?五臓六腑が、四肢五体が、感覚、感情、情熱がないとでも言うのか?」
にはこの話が内包するものを思い出したりした。(長いので原文は割愛。英語書くの時間かかるし^_^)
ちょっと独りで踊ってしまったのが「タイタス・アンドロニカス」のタイタスの台詞、
「この恐ろしい眠りに終わりはないのか?」
When will this fearful slumber have
an end?
で、スランバーは眠りか、と気づき、マクベスにはさらに黄金の眠り、という言葉もあるから、そうか、「ゴールデンスランバー」はシェイクスピアピアからか!さすが伊坂だな、と思って調べたら、ビートルズの曲のことで、ビートルズはマザーグースからとったようだと知り、あまりの大ハズレに笑ってしまった。
シェイクスピアというのは、悲劇も喜劇も構成が上手で、また台詞も非常に、なんというか文学的にいいキレ方をしていて、決して意味が取りやすいものではないが、言葉そのものが強い力を放っているように思える。理屈通りでもただ分かりやすいものでもない。芸術ってものの1つなのだろう。
言葉単体としては正直、心に響くものは少なかったかな。うーん、修行不足。物語の中に引用してあるととても恰好いいんだけどね。
この本には無かったが、「シャーロック・ホームズの生還」中の「空き家の冒険」でホームズが自分を空気銃で殺そうとしたモラン大佐に
「やあ、大佐、『旅路の果ては、恋する者のめぐりあい』とかいう昔の芝居のせりふじゃないが、お久しぶり。」(十二夜)
と話しかける場面とか。
「ビブリオ古書堂」で栞子さんが
「ああ、歓び以外の思いは、すべて空に消えてゆく。数々の疑惑も、先走った絶望も、ぞっとするような不安も、緑色の目をした嫉妬も」(ヴェニスの商人)
とつぶやくとことかいいですね。
とりとめがなくなってきた。特に心に残ったのは好きな「ジュリアス・シーザー」より最後の戦いを前にしたブルータスの言葉。
永久にさらばだ、さらばだ、キャシアス!
ふたたび会うことがあれば微笑み交そうではないか。
For ever, and for ever, farewell Cassius!
If we do meet again, why, we shall smile.
永久にさらばだ、さらばだ、という部分の英語の語感がいい。
未読の話も読みたいな。全集を図書館で探してみよう。
◾️堀辰雄「聖家族」
堀が描く芥川龍之介は、やはり影のような人物像のイメージだ。
立ち寄ったブックオフに、「風立ちぬ」以外の堀辰雄が珍しく出ていたので入手。堀辰雄はかねがねもう少し読みたいと思っていた。
「聖家族」は交友のあった芥川龍之介の自殺に衝撃を受け書いた作品らしい。「美しい村」も収録されている。
敬愛していた九鬼の葬儀で細木(さいき)という未亡人に逢った二十才の河野偏理はやがて細木夫人を訪うようになり娘の絹子に惹かれる。絹子は古本屋で九鬼という蔵書印が押してあるラファエロの画集を見つける。それは河野が九鬼から譲り受け亡くなる直前に売ってしまい、後悔しているものだったー。
(聖家族)
九鬼の死にショックを受けその影を感じながら暮らす河野。九鬼に愛された細木と、娘の絹子の心理と微妙な距離を表した短い作品。「風立ちぬ」とはイメージが違い、死の影が色濃く反映された一篇。訴えかけるものがまさに晩年の芥川のようだ。似ている、というよりは芥川が書いたものの主人公が死の世界に行ってしまった本人のような気がした。
私もそんなに深いわけではないが、若い文人たちの、軽井沢での交友は美しく儚い、物語的な雰囲気を帯びている印象だ。
「美しい村」は本来の堀辰雄かなと思わせる。細木親娘との親交を薄くうかがわせる。軽井沢近くの自然豊かな村に滞在している筆者が絵を描く少女に淡い恋心を抱き交友を深める。日本的な自然美の中に、外国人も多い土地柄の特質やその家屋なども構成の材料としてしたためている。
どちらもキリはつくものの完結する話ではないし、あまりドラスティックな展開もないが、細やかな心理を表している。風景が鮮やかに、静かに心に浮かぶようで、ふむふむと堀辰雄の色に少し浸った。