2019年2月23日土曜日

2月書評の3

今週は、ゆっくり長いのを読んだんで3冊うち1つはマンガ。

先週末は息子の誕生日でグランフロントで食事、ルクアでクレープのデザート。

今週末は福岡に帰省して太宰府で観梅。梅を観に来たのは何十年ぶりか。昔の彼女と来たなあ・・。言い伝え通り縁が切れてしまった・・。

梅ヶ枝餅、美味かった。

◼️川端康成「掌の小説」


自由だな、と思った122篇。


「文豪ナビ 川端康成」で興味を持って読んでみた。長くとも10ページもない短編が並び続ける552ページ。


幻想的なものもあるし、他愛ない男女のシチューションを作った話もあり、川端目線でスケッチをしている風なものもある。親族の名前、姉の芳子らの名前も散らされる。大半が20代のころ書いたものだそうだが、戦後をにじませる篇も入っている。


川端康成は計算されたような場面展開をする作品を読んできたせいか、これらの短編を読んでいるうちに「自由だな」という考えが浮かんだ。ショートショートほかの短編集のようにオチを含んでいるわけでも、毒を描くのでも、何かを強く顕示するということでもない。


心に残ったのは


「男と女と荷車」

「胡頽子(ぐみ)盗人」

「夏の靴」

「冬近し」

「帽子事件」

「鶏と踊子」

「縛られた夫」

「顔」

「妹の着物」

「十七歳」

「さざん花」


といったところ。母数が多いからチョイスも多め。


「男と女と荷車」は荷車でシーソーをして遊ぶ12、3歳の男女の話。誰もが想い出の中に勝気で美しい百合子の印象を探すのでは、と思わせる。


「胡頽子(ぐみ)盗人」は炭焼きの娘が胡頽子を折り取って食べ食べ医者へお礼に行く。きれいな胡頽子の赤が秋の風情を醸し出す。


「夏の靴」は馭者の目を盗んで馬車にぶら下がる裸足の少女の話。馭者は根負けして馬車に乗せてやる。最後に鮮やかに白い靴が出てくる。


「帽子事件」は池に落ちた帽子を拾おうとして欄干に捕まった者の手を頼りに落とし主が脚を伸ばしたら・・。この話は珍しく目を引くことが起きる話。


「縛られた男」は落語っぽいか。遅く帰る踊り子・蘭子が詩人の夫の足を縛り、紐を窓から垂らしておき、帰ったら下から引っ張って起こし、鍵を開けてもらうようにしていたが・・蘭子のセリフで珍しくオチがついてお終い。


「さざん花」は川端が戦後周囲であった出産ラッシュの中思ったこと。生まれ変わり、という言葉に時代の発想を感じた。


「新感覚派」と言われた川端の若い日と、読み慣れた戦後の感覚に触れる。また違うテイストを味わったかな。


分厚い短編集をゆっくり読むのも、悪くなかった。


◼️エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」


ガリヴァー旅行記?西遊記?神話に近いか、アフリカの作品。


書評を見て気にかけていたところ、図書館でバタッと出会ったから即借り。


裕福な家に生まれた私は10歳のころからやし酒のみだった。しかし父が死に、やし酒造りの職人も死んでしまった。

「この世で死んだ人は、みんなすぐに天国へは行かないで、この世のどこかに住んでいるものだ」

古老たちの言葉を信じて、私はあのやし酒造りを探す長い長い旅に出たー。


死神の家、ズガイ骨の紳士と戦い、妻を得て一緒に旅立った私。ドラム・ソング・ダンスと出会い、幽霊島にしばし安住し、不帰(かえらじ)の天の町では夫婦ともどもひどい目に遭わされる。白い木の誠実な母のもとで癒され、赤い町では赤い魚と赤い鳥を退治する。苦難の旅の末、死者の町でやし酒造りと再会するー。


ヨルバ族の伝承をもとにしたファンタジックな冒険物語に、銃などの武器に白人や近代の

影響がにじむ。


次々と色々な町に行き、どこか学識的な匂いもするので、最初はガリヴァー旅行記みたいだな、と思った。あまりに怪物や不思議な生物と戦う場面が多く、次に西遊記みたいだと考えた。残酷さに訓示的なテイストもあり、必ずしも割り切れない話の成り行きに神話のよう、とも感じつつ読み切った。


アフリカ部族の伝統的な意識と土着の暮らしを伺わせる不思議な作品ではある。欧米で評価が高く、著者の母国ナイジェリアではアフリカの未開さを強調するという批判もあり、あまり人気がないとのこと。


うーん確かに欧米は中国やアジア、極東に独特な憧れを抱いているな、と感じたことはこれまでもある。ノーベル文学賞の選考作品の1つ、川端康成「古都」も海外での人気の方が高いという話もあるし。


私には「やし酒のみ」は著者の感覚を活かして創られたストーリー作品かな、という印象だった。私も海外の読者だが、やはりアフリカ独特の生活や感覚には興味が惹かれる。読んでる限りは伝承に載っただけではなく、著者が自分の中に育てた感覚からにじみ出た創作物に見えた。


場面が次々と変わり不思議な世界が次から次から展開される。法力を持つジュジュや畏れを与える密林が意識されているのも興味深い。


◼️矢部太郎「大家さんと僕」


やばい、ホロホロ涙、声出して笑う。とてもいい。


本来マンガ読みだが、最近はあまり読んでない。入院中の母を見舞いに行って本を読んでるという話をしたら、「これ読みなさい。一晩で読んで返して」と渡された本。


そんなに好きなんかいなとページをめくったところ、どんどん引き込まれてしまった。


矢部太郎は「電波少年」の「○○人を笑わせに行こう!」で知った。にくめない、応援したくなる芸人。このエピソード集も、らしさ全開でほのぼのとステキな空間が広がっている。


借りていたマンションを追い出された矢部は、新宿区の外れある、一件家の2階に住むことにする。1階で暮らす大家さんは戦中生まれの裕福な婦人で、なにかと干渉してくる姿勢に最初は当惑した矢部も、やがて2人で出かけるほど仲良くなる。ある日、大家さんは突然倒れ、入院するー。


とにかく大家さんが可愛らしくて品が良い。そして作・矢部のセンスがとてもいい。明るくて働きものの大家さんに漂うペーソス。大家さんとの生活を本当に好きなんだなあ、というのがダイレクトに伝わる。いつも自分を気にかけてくれる他人の存在は、仕事やプライベートの矢部の姿に跳ね返る。自分のことは、ちょっと謙遜して、作ってるんじゃ?と思うが、そう思わせられている面もきっとあるだろう。


ほのぼのと、しみじみと味わい、時にホロリとする。大家さんが病院に外出許可をもらって矢部の舞台を観に来た、というのに感動し、楽屋での挨拶で声を出して笑う。


絵はよく言えばシンプル。まあ上手とは言えない。でもヘタウマがこんなによく感じることって、「崖の上のポニョ」の主題歌以来だなあと思った。






2019年2月17日日曜日

2月書評の2

バレンタインのある週は、必然的に息子の誕生日。日曜日に食事に出かける予定。

来週には気温が上がり春の気配となるとか。福岡はけっこういつまでも寒いけど関西は2月終盤には気温が上がってくるイメージ。でもまだ寒い。朝晩は真冬並み。

今週は4冊。いま分厚いやつに取り掛かっていて、骨が折れそうだ。

けさちょっと胸の下が痛くなり座り込んだ。その時はすぐ治ったし、どうってことないのだが、どうも体調の悪さを感じる。寒気がするし。

◾️ダシール・ハメット「マルタの鷹」

江戸川乱歩に賛成気味・・。もひとつかな、と思うのは時代の変革の証明か?

ダシール・ハメットの長編第3作で1930年に書かれている。推理小説の世界にハードボイルドなスタイルを確立した作品だという。

サンフランシスコの探偵、サム・スペイドのもとに若いワンダリー嬢が訪ねてくる。妹がかどわかされ、その男・サーズビーと夜に会うことになっているという。スペイドの共同経営者アーチャーが尾行することにしたその翌朝、アーチャーと、サーズビーの死体が見つかったー。

解説によれば、アメリカで高い評価を受けた一方、江戸川乱歩は「退屈しながら、無理に読み終わったようなもの」で「どうにも興味が持てなかった。」と評している。

物語の成り行きは、アーチャーの妻アイヴァとデキてしまっていたスペイドは警察に疑われるが、全てを話はしない。実はワンダリーなんて偽名で妹もいなかった。そしてカイロ、ガトマンといった怪しい男たちが現れてくる。どうやら高価ななんらかのモノが絡んでいるようだー。スペイドと彼らは腹を探り合い、時にハッタリをかましたり脅しをかけたりの駆け引きをする。そして謎は少しずつ明らかになってくる。幕引きも冷徹ー。

私も実は、読んでいて乱歩と似たような感触を持った。共同経営者が殺されたにしてはクールに過ぎるし、あちこちに噛みついているような感触を受ける。その駆け引きだけで話が前に進まないな、という気になってしまうのだ。

謎があって、基本的に正義の探偵がいて、わずかな糸口から次々と真相を解き明かすタイプの話に慣れてしまってるからか、とも思ったりした。スペイドは利己的で、金の匂いにも敏感で、しかし公正さも保とうと、しないでもない。女にもなびく。

ただ、いわゆる出来上がった、超人的な探偵像と違い、より人間臭く、また真相が分かるまでは誰をも信用せず、警察にも頼らず全体像を見極めようとする流れは分かるような気がした。

ハードボイルドの萌芽、それがまたアメリカに生まれたという背景もあるのではないかと思う。この後ハードボイルド小説が大きな広がりを見せることを考えれば、大きな変革期には違和感がつきまとうものかもと納得もできる。

でも、やっぱりまだるっこしいし、スッキリしないかな。タイトルはよく見かけるから血湧き肉躍るかな、と思って読んでみたら、うーむという感じだった。

◼️グザヴィエ・ジラール
「マティス 色彩の交響楽」

マティスの色彩感に親しむ。たぐいまれなるコロリスト(色彩画家)。

マティス、という名前は知っていたが、その色彩感に強く惹かれたのはごく最近だ。黄色、赤といった色で鮮やかに何か心に響くものを表現している。全体を知りたくなり図書館で探した本。ニーズにあるマティス美術館の責任者による執筆である。

1869年に生まれフランス北部の小さな町で育ったマティス。法律事務所に就職する。21歳の時、盲腸炎をこじらせ長期療養する。この時に母親が買って来てくれた絵の道具で退屈しのぎに描くうちに絵への関心が高まり、やがてギュスターブ・モローの教室に通うようになる。そしてルーブル美術館の絵を模写した。

才能はいつ、どういう風に発現するか分かりませんね。

初期の風景画はあまり確固とした特徴はないように思える。しかし当時流行していた印象派、またセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの影響を受けつつ、1890年代後半から1900年代初頭にはだんだんと色彩豊かな作品を描くようになった。

「コルシカ風景」「トゥールーズの家並み」「最初のオレンジ色の静物」ではだんだんとオレンジ、黄色、赤で構成された色の調和が前面に出る。

このころマティスの友人は、かつて灰色の絵に造詣が深く、まれに見る力強い調和を特徴とする達人でと見られていたマティスが、たけだけしい、狂ったような印象主義と呼ぶにふさわしいこの激しい絵を描くとは、と驚いたという。

そして1905年の「豪奢、静寂、逸楽」で1つの頂点を迎えた、と私は思う。混じり気のない虹の七色の短い線の集積で描かれた作品だった。南仏コリウールで描かれた「コリウールの開いた窓」も赤を前面に押し出したもので、とても魅力的だ。

さらにこの年、マティスは妻をモデルにして「帽子をかぶった女」「緑のすじのあるマティス夫人」を描く。これは顔に緑っぽい青を塗ったり、タイトルどおり顔の真ん中に緑色の太い線を入れたもので、フォービズム(野獣派)と言われた。

特に暖色系を操り強烈な印象を観るものに飛ばしてくるような作品は特徴的だ。しかし私はとても美しくチャーミングだと思う。「食卓ー赤い調和」なんか大好きである。

そして、この本でマティスの作品の流れを見る限り、マティスは新しい形を生み出そうとたくさんの実験をもしているのではと思える。フォービズムもその1つと理解するのは難しくない。ピカソとも親交が深く、対象の描き方にもその影響が見られるし、抽象的なモチーフのものもたくさん描いている。

有名な「ダンス」もそうかも。裸の人間が手をつなぎ輪になって踊っている絵である。この本を読んで、様々なチャレンジをするマティスはこの時代の芸術家らしくて恰好良い。

陶器への絵付けもとても良い。花のデザイン、人の顔や女性の絵と可愛らしく、レプリカどこかで売ってないかなという気になる。

私は美術は好きだが体系的な知識を持てないでいるので、マティスも「切り絵の人」というイメージがあった。たまたま他の美術本で読みかじったのと、テレビでマティスの特集をやっていて、その色彩に強烈に惹かれた。

マティスの色の使い方は素晴らしい。この本はカラーでたくさんの作品が掲載してあり、求めていたものを感じることができて満足感が高い。やっぱり色味豊かな、描いた対象も分かりやすいのがいいかな。「マニラのショール」「モロッコ風の衝立の前の娘たち」なども鮮やかで、白も目立ってとてもいい。

最後にマティスの言葉より。
「色彩が表現性を取り戻したということは、色彩の歴史を開く出来事です。色彩は長いあいだデッサンの補完物でしかありませんでした。」

マティス展ないかなあ。

◼️近藤史恵「スティグマータ」

ナイーブさと実力。誰もの心にあるものと、こうなりたい、と願うもの。チカは両方を持っているのかも。

おおマイヨ・ジョーヌだ、山岳ジャージだ、エナジーバーだサコッシュだと、サイクルロードレースの世界に浸る本。しかも舞台はツール・ド・フランス。いやーしばらくぶりのチカもの長編なんで、思い出すのが楽しかった。

ヨーロッパに来て5年目。チカ=白石誓(ちかう)は30才のサイクルロードレースのプロ選手でアシストが専門だ。ポルトガルやスペインのチームを転々とし、かつて戦ったニコラがエースのオランジュフランセで今回のツールにも出ることになった。ドーピングで業界を追われタイトルを剥奪されたかつてのスター、メネンコの復帰でざわついた雰囲気の中、チカはメネンコに呼び出され、チームメイトのアルギを見張って欲しいと頼まれる。

この小説の良さはなんといってもレースの描写と、ロードレース選手たちの生活、雰囲気、レースの戦術・駆け引きといったものだろう。中心となる謎と進展のテンポも上手いと思うけども、第1弾「サクリファイス」の時から実は謎の結末はしっくり来なかったけど、今回もそうだった。謎は装飾でしかないかもと思った。

チカも30才台に突入し、来季のチームを探しながらレースを走っている。今回のチカはベテランの経験を活かして最後まで大きなミスをしない。そしてラストに大活躍を見せる。その疾走感を心に感じる場面がクライマックスである。色んなものがごっちゃになった現状を一気に打破してみせる。
めっちゃGOODだと思います。

わたしは思う。外国人に比べてナイーブだと思っているチカは読む誰もが心に抱いているその部分を共鳴させる。さらにやる時はやる、と思わせる。陰に隠れてはいるが気遣いや観察力、チャンスを逃がさない判断力を備えた、職人気質とも言える部分を読んで読者は憧れ、こうありたいと思い、心で快哉を叫んでいるのではないか。

もちろんかつてのチームメイトで敵チームエースのミッコ、今回のニコラ、日本にいた時のライバル伊庭らのキャラクター造形も面白い。

チームメイトのアルギの妹ヒルダとチカの恋の予感を抱かせつつ終り。「サクリファイス」の読了時、チカがヨーロッパで戦う次作の「エデン」を強烈に読みたくなったが、これまた変化を期待できるシチュエーションの終わり方。続編がホントに楽しみだ。

◼️新潮文庫編「文豪ナビ 川端康成」

たまには一歩離れてみるのもいいかな。やっぱ「雪国」はキレキレだと思う。

「川端康成おすすめコース」や「雪国」「山の音」「眠れる美女」を10ページほどのハイライトにしたもの、声に出して読みたい文章特集、石田衣良と角田光代のエッセイ、そして作品の解説も絡めた川端の評伝で構成されている、薄い本。

ハイライトで読んでも、やっぱり「雪国」はキレキレだ。有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の次の「夜の底が白くなった。」ではっきりとした景色を想像する。チャイコフスキーがピアノ協奏曲で、出だしのタタタタン、ジャン!という5音で誰しも憶えるフレーズを作ったように、川端は2つめの短い、簡単な一文で心を掴む。

電車の窓に映った葉子と夕景色、そしてクライマックスの天の河と火事の色彩。うーむ。正直駒子との恋愛はあまりどうでもいいのだが、この作品は本当に映像的で、刺さる美しさがある。

さて、ここ数年で熱狂的なファンを持つ太宰治や宮沢賢治、芥川龍之介を読んできた。それはどうして、そこまで好きな人がいるんだろう、という好奇心も強かった。いまも分かるような、分からないような感覚である。

ひるがえって川端康成はこの本で石田衣良が書いているように「雪国とノーベル賞のふたつを連想し、神棚に祀りあげてお仕舞いという感がある。」と思う。うーん、成熟した大人の作家感がありすぎるからだろうか。誰もが知ってるけど人気があるとは言えない。でもま、それもまた孤高の美しさを保つ要素のような気がしたりして。

風景ばかりでなく、川端は女性の美を、文章表現で、物語として、直接的に、積み重ね練り上げたもので、研いだような感性を操り描いていると、よく思う。川端の描く女性の美しさはどんなものだろうと探してみたくなる。「伊豆の踊り子」の薫、「雪国」の葉子、「古都」の千恵子、「山の音」の菊子、そして「千羽鶴」のゆき子・・。映画になっている作品も多いが、このヒロインたちには特別なものがあって、おいそれと想像も形を結ばない。

「眠れる美女」はまだ未読だが、中でだいぶ出てきた短編集「掌の小説」は持っているから読んでみよう。

まだまだ川端シンドローム。

2月書評の2

2019年2月10日日曜日

2月書評の1

今月から毎週書評をアップすることにした。まとめてアップする方がのちの検索をやりやすくはあるが月始めの作業負担が大きい。日記の代わりにもなることだしやってみようかと。

写真は珍しい、低い虹。見えるかな?
今年ここまでは暖冬。去年の今ごろは最低0度最高5度とかが続いて本当に寒かった。今週は寒くても昼には8度くらいになるからまだマシと言い合っている。三寒四温の、春のローテに入ってるような気もする。明日は雪だとか。

四大陸選手権、紀平梨花の逆転優勝に快哉。世界も大物の予感を嗅ぎ取っている?まだまだオリンピックまでは長いし、ゆーても四大陸。来月の世界選手権に期待。

◾️黒岩重吾「剣は湖都に燃ゆ 壬申の乱秘話」

緊張感高まる中、大海人皇子の舎人たちの恋物語。面白かった。

天智天皇は都を近江大津宮に遷し、弟の大海人皇子を皇太弟、後継者と見なしたが次第に息子の大友皇子へと気持ちが傾く。手段を選ばず邪魔者を消す兄に身の危険を感じた大海人は自ら出家して吉野離宮へ落ちる。しかし、東国美濃の自分の領地で挙兵する意を固めていた大海人と疑惑の目を向ける近江大津。互いに多くの間者を放つ一方で大海人は近辺の豪族を取り込むべく舎人たちを派遣する。

そんな時代背景、前提をもとに
「黄泉の国は春の地に」
「夜明け前」
「近江御前試合」
「湖の影」
「阿騎野に燃ゆ」

といった50ページほどの5編が展開されている。それぞれ豪族へのアプローチや間諜を命じられた舎人たち。絶妙なバランスの、任務の遂行と悲恋。

壬申の乱前夜ー。
大海人皇子の舎人で吉野に付き従った渡来系氏族の書首根麻呂(ふびのおびとねまろ)は奈良・宇陀の山人族を味方につけるべくその長おおくにの元へ通っていた。ある日根麻呂はおおくにのところでよねという娘と出会い気に入るが、おおくには根麻呂を誘惑したとよねを閉じ込め、許すためには、監禁小屋の見張りをしている屈強な男を倒せという条件を出す。(黄泉の国は春の地に)

「夜明け前」はダブルスパイの男女の哀しい結末、「近江御前試合」は日本書紀にも名前が見える勇猛な武人、大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)が近江大津側の武将・智尊と勝負する、唯一女人のからんでない話。爽やかな哀しさが漂う。「湖の影」は連絡係に退屈した男が通信のための竹筒をつるす女を助け、恋に落ちる。この作品は夜が中心の物語で、夜の闇濃い湖や大津の宮が長めに描かれていて、不安やストレス、局面の不穏さ、などを煽っているのが印象的。ラストの「阿騎野に燃ゆ」には救われたような気持ちになる。

ピンと張りつめた雰囲気の中、ほどよく劇画的で、色も人情も冷徹さも出したストーリー。変化もついている。結末がまた虚しく悠久さを感じさせる。

壬申の乱前後は白村江の戦いに大敗し、外国が侵略してくるのでは、という波乱の時期である。壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇となり飛鳥へ移る。

この時代は日本書紀にも記されており、国際的、国内的にきな臭い、緊張感あふれる時代。後の幕末のようだ。個人的に黒い、でもロマンあふれる雰囲気を持っていると思う。

こちらの書評を読んでいつか、と思っていたのを入手。古代ものの時代劇短編、という感じで、今の嗜好にもスコンとはまって、良かった。

◾️トレイシー・シュヴァリエ
「真珠の耳飾りの少女」

名画モデルの少女が、動き出す。

もうすぐ関西でフェルメール展があるからと読んでみた本。タイトル通り「真珠の耳飾りの少女」が主人公。あの、大きな瞳の、青いターバンのようなものを巻いた少女が不意をつかれたように振り返っている絵。内容はとても思春期の女子らしい心理描写で鬱屈した暮らしの中の光、という感じだ。

タイルに絵を描く職人の娘、16歳のフリートは貧しさからフェルメール家の女中となる。大きな目をした賢いフリートはやがて画家から絵の具作りを頼まれ、妻子も立ち入れないアトリエの屋根裏部屋で寝起きするようになる。

女中の先輩タンネケ、フェルメールの妻カタリーナ、意地悪な女の子コルネーリアらの嫉妬を買い、家の中で味方のいないフリート。

フェルメール家で暮らし始めたフリートは日曜日に帰ることができる近くの実家にも違和感を覚え始める。そして実家には恐ろしい疫病が襲いかかる。

さらにフリートに想いを寄せる肉屋のピーターにとまどい、フェルメールのパトロン、ファン・ライフェンは欲望もあらわに露骨にフリートにせまる。画家の旦那様も含めて男性たちがフリートの心をかき乱す。

やがて絵のモデルとなり画家と幸せなひとときを過ごすがー。

フリートの淡々とした語りでストーリーが進む。そこにはいやおうなくストレスを受け止めなければならない十代後期の当惑、いらだち、孤独感が充満している。生活、女としての成長による避けがたいもの。物語のベースにはアンニュイで不安定、追い詰められた閉塞感が漂う。

フェルメールといえば、光というイメージである。個人的には描かれているものよりも、光で対象を表していることに気が向く。

もちろん黄色や青、フェルメールブルーと言われる色も心地よく訴えてくるし、絵のバランスも整っている。感覚的にも美しい。でも数ある光を意識した絵の中で、こんなに鮮やかな印象を残す光も珍しいと思う。

現状と未来に漂う閉塞感で塗りつぶしているからこそ、ときおり描かれる光の表現が活きるのだろう。

と、ここまで書いたが、この話は映画向きかな、と思ってしまった。少女心理をテーマにしたものは嫌いではない。が、特に海外ものに見られる、物憂げなこの手のストーリー立て小説は苦手めかな、と。

この作品には「牛乳を注ぐ女」「水差しを持つ女」「女と二人の紳士」「合奏」「真珠の首飾りの女」が出てきて楽しい。「真珠の耳飾りの少女」頭に巻いている布や耳飾りについても触れられているし、ほかの絵の部分についてもエピソードが盛り込まれている。

家族やフェルメール家の間取りなどは史実に近いそうだが、フィクションもまた多い。
「真珠の耳飾りの少女」が頭に巻いているターバンのようなものは当時のオランダの風俗にはないそうで、東洋風だという。また、多くの絵のモデルは不明のようだ。

ベースは苦手めだったし、フェルメール本人がシャンとしなさすぎのところは釈然としなかったりする。

でも、絵の具作りや採光ほかフェルメールの絵を充分に意識した作りはかなり楽しめた。時代背景も取り巻く人々も展覧会の前のいい予習になった。

「真珠の耳飾りの少女」はモチーフと光と色が調和した、やはり目立つ絵だと思う。あの、びっくりしたように振り返ったところがいいよね。

◾️小田島雄志「シェイクスピア名言集」

このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。

タイトルの通り、シェイクスピアの劇中の名言をテーマごとに100個集め、解説を施したもの。1つを2ページで完結している。シェイクスピア研究者の著者が半ばすぎまでは深い意味合い、そして著者自身の身の回りの出来事基づいてオチをつけて終わる構成。

冒頭はもちろん有名な

To be, or not to be,
that is the question.

「ハムレット」の台詞である。小田島氏はこのフレーズに続くハムレットの言葉からto beとはこのまま運命に耐えて生きることであり、not to beとはこのままであることをやめ、運命と闘うこと、闘えば人間は敗れて死ぬ定めにある。現状維持か死を賭した現状打破かの二つの道にハムレットは想いを馳せている、と述べ、冒頭のように訳したと読める。あいまいな広がりを持った言葉だと。

私が読んだ新潮文庫版は「生か死か、それが疑問だ」となってた気がするし、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」はよく言われる。いやもちろんシロートだが、どれもしっくりこない。実は。でも意味合いとしてはとても似通っているとは思う。

シェイクスピアはここ2年で、彼が書いた37編のうち15くらいは読んだだろうか。比較的容易に手に入る新潮文庫版をほとんど読んだいま、持ち運びにも薄い文庫本が好ましいため全集などには手をつけず最近は読んでない。今回はこういう場面があったなあ、とかまだ読んでないこの話は面白そうだな、とか感じながら読み進めた。

「アントニーとクレオパトラ」で
「あれは私の若葉の時代。分別は青くさく、情熱も湧き立たぬころの話だわ」

My salad days , When I was green in judgement, cold in my blood.

というクレオパトラの台詞、サラダデイズ、というのが小粋だと思ったり、

「マクベス」のマクベスをそそのかす魔女の言葉

「いいは悪いで悪いはいい」

Fair is foul, and foul is fair.

きれいはきたない、きたないはきれい、も含めて絶妙さを感じたり、

「ヴェニスの商人」のシャイロックの

「ユダヤ人には目がないか?手がないか?五臓六腑が、四肢五体が、感覚、感情、情熱がないとでも言うのか?」

にはこの話が内包するものを思い出したりした。(長いので原文は割愛。英語書くの時間かかるし^_^)

ちょっと独りで踊ってしまったのが「タイタス・アンドロニカス」のタイタスの台詞、

「この恐ろしい眠りに終わりはないのか?」

When will this fearful slumber have
an end?

で、スランバーは眠りか、と気づき、マクベスにはさらに黄金の眠り、という言葉もあるから、そうか、「ゴールデンスランバー」はシェイクスピアピアからか!さすが伊坂だな、と思って調べたら、ビートルズの曲のことで、ビートルズはマザーグースからとったようだと知り、あまりの大ハズレに笑ってしまった。

シェイクスピアというのは、悲劇も喜劇も構成が上手で、また台詞も非常に、なんというか文学的にいいキレ方をしていて、決して意味が取りやすいものではないが、言葉そのものが強い力を放っているように思える。理屈通りでもただ分かりやすいものでもない。芸術ってものの1つなのだろう。

言葉単体としては正直、心に響くものは少なかったかな。うーん、修行不足。物語の中に引用してあるととても恰好いいんだけどね。

この本には無かったが、「シャーロック・ホームズの生還」中の「空き家の冒険」でホームズが自分を空気銃で殺そうとしたモラン大佐に

「やあ、大佐、『旅路の果ては、恋する者のめぐりあい』とかいう昔の芝居のせりふじゃないが、お久しぶり。」(十二夜)

と話しかける場面とか。

「ビブリオ古書堂」で栞子さんが

「ああ、歓び以外の思いは、すべて空に消えてゆく。数々の疑惑も、先走った絶望も、ぞっとするような不安も、緑色の目をした嫉妬も」(ヴェニスの商人)

とつぶやくとことかいいですね。

とりとめがなくなってきた。特に心に残ったのは好きな「ジュリアス・シーザー」より最後の戦いを前にしたブルータスの言葉。

永久にさらばだ、さらばだ、キャシアス!
ふたたび会うことがあれば微笑み交そうではないか。

For ever, and for ever, farewell Cassius!
If we do meet again, why, we shall smile.

永久にさらばだ、さらばだ、という部分の英語の語感がいい。

未読の話も読みたいな。全集を図書館で探してみよう。

◾️堀辰雄「聖家族」

堀が描く芥川龍之介は、やはり影のような人物像のイメージだ。

立ち寄ったブックオフに、「風立ちぬ」以外の堀辰雄が珍しく出ていたので入手。堀辰雄はかねがねもう少し読みたいと思っていた。

「聖家族」は交友のあった芥川龍之介の自殺に衝撃を受け書いた作品らしい。「美しい村」も収録されている。

敬愛していた九鬼の葬儀で細木(さいき)という未亡人に逢った二十才の河野偏理はやがて細木夫人を訪うようになり娘の絹子に惹かれる。絹子は古本屋で九鬼という蔵書印が押してあるラファエロの画集を見つける。それは河野が九鬼から譲り受け亡くなる直前に売ってしまい、後悔しているものだったー。
(聖家族)

九鬼の死にショックを受けその影を感じながら暮らす河野。九鬼に愛された細木と、娘の絹子の心理と微妙な距離を表した短い作品。「風立ちぬ」とはイメージが違い、死の影が色濃く反映された一篇。訴えかけるものがまさに晩年の芥川のようだ。似ている、というよりは芥川が書いたものの主人公が死の世界に行ってしまった本人のような気がした。

私もそんなに深いわけではないが、若い文人たちの、軽井沢での交友は美しく儚い、物語的な雰囲気を帯びている印象だ。

「美しい村」は本来の堀辰雄かなと思わせる。細木親娘との親交を薄くうかがわせる。軽井沢近くの自然豊かな村に滞在している筆者が絵を描く少女に淡い恋心を抱き交友を深める。日本的な自然美の中に、外国人も多い土地柄の特質やその家屋なども構成の材料としてしたためている。

どちらもキリはつくものの完結する話ではないし、あまりドラスティックな展開もないが、細やかな心理を表している。風景が鮮やかに、静かに心に浮かぶようで、ふむふむと堀辰雄の色に少し浸った。

2月書評の1

2019年2月2日土曜日

2月書評の3




1月は6作品10冊。源氏物語はひっじょう〜に時間がかかった。ひと月の作品数が10を超えなかったのは反省だな

いぬじゅん「奈良まちはじまり朝ごはん」2


重たく長い源氏物語の次はラノベが読みたくなって。軽いんだけど、好きだなこれ。


ならまちの外れにある朝ごはん屋は、ぶっきらぼうなイケメン、雄也と思わぬ成り行きで店員になった名古屋出身の詩織が切り盛りしている。お店の常連のおしゃれな男・広瀬は近鉄電車で菖蒲池(あやめいけ)までの通勤時、いつも同じ車両に乗り合わせる相手に恋してしまったらしい。告白することを決めた広瀬に頼まれ、詩織は着いて行くことにー。

(おはぎの淡い恋)


温かい朝ごはん、というだけで食欲をそそるところに、好きな奈良の風情が散らされ、料理も奈良由来のもの。ゲイの僧侶・和豆やスナックを経営する園子ちゃんらにぎにぎしいメンツとともに、淡い恋から重たい家庭事情までをネタに人情味を描き出す。


今回出てきた主な料理は

・豚肉と宇陀金ゴボウ煮込み

・大葉の豆腐つみれ

・くるみ入りおはぎ

・うなぎ柿の葉寿司

・奈良のっぺ

・飛鳥鍋

・きな粉雑煮


いやーどれも食べたくなる。去年のこの時期にこの本は出ていて、やっぱほかほかものを意識してるなと^_^ほか、近鉄奈良駅そばのもちいどのセンター街近くに売っているという絶品ヨモギ餅は、次に行った時絶対食べたい気になった。東大寺や春日大社に電車で行く場合、JR奈良駅より、近鉄奈良駅の方がはるかに近く駅の周囲は賑わっていて、ならまちも近い。次は久々の東大寺に行きたいからちょうどだ、なんて考える。


ラノベだけども一つの文章が長い源氏物語の後に読むからか、ちょっと思うことがあった。


この作品の中身は一見軽く見えるけれども、冒頭の作品は展開の合間に違う料理を挟み、数を出すことで印象づけてるかのよう。ラストはちょいホロリと来た。なんでここで泣くかな、と思うくらい上手な展開だと思ったりした。


文章はいたってシンプルで一文が短く、分かりにくいことというのがない。それぞれのキャラも気持ちよく、少し謎を絡ませているのが冴えている。主人公の詩織が丁寧すぎる敬語を使ったり、その弟の若者言葉?を出したりするのも意識的に違和感を創り出しているのだろう。


京都人から京都のこと、神戸人から神戸のことを聞くと、そこで育った人ならではの矜持や習慣、よく行くところなどが聞けて楽しいが、この本では奈良人の心意気が見えるようだ。身近にいるからリアルでも聞いてるけど、知識を得てから話すとまたより楽しい。藤原京の話をしたら行き方をメールで送ってきてくれたりして。


いやーいいね。3巻も出ているから迷わず読もうっと。


マーガレット・パーク・ブリッジス

「わが愛しのワトスン」


今年のホームズ始め。設定も大まかな流れも単純だったが、細かい心理描写やマクベスと絡める台詞回しなど奥行きがあったと思う。


全編ホームズの1人称、モノローグであり、早々に自分は女性だったと明かされる。この物語はホームズが女性、という設定のお話なのです。時はホームズが隠退してから1年後の1903年12月とある。住まいはサセックスではなく、未だベイカー街221B、ハドスン夫人の下宿屋だ。ホームズはまもなく50歳。


初っ端からまた大胆な・・男女ではワトスンとの長年の暮らしにも違う色合いが・・とか不埒なことを考えていると、3度目の妻を亡くした当のワトスンが登場。旧交を温め始めたところへすぐ美しい依頼人が飛び込んでくる。女優で、名前はコンスタンス・モリアーティ。なんとモリアーティの娘だった。


父親のモリアーティは生きている、再会を望むなら父親の書斎から図表と数式と五百ポンドを持ってこい、という脅迫文のような内容の手紙が送りつけられたという。それにしてもこの件をホームズに持ってくるとは、お嬢さん育ちのコンスタンスは自分の父の死の顛末をひょっとして知らされていないんだろうか。戸惑うホームズ&ワトスン。モリアーティはスイスのマイリンゲンの滝でホームズと決闘し滝壺に落ちていったはずだからだ。


まあおよそモリアーティの娘がホームズのところに来て、企みがないわけがない、とはフツーに考えること。後段への心構え、である。


ホームズは手掛かりを求めてワトスンと大陸に出かけるが、大量のコカインを盛られて昏倒。ようやく体調が回復、ベイカー街に戻ったら、ワトスンはコンスタンスにせがまれ、ホームズの犯罪資料類を整理整頓という名のもと触らせてしまい、さらに、コンスタンスと婚約し、この部屋に来て父をホームズに殺されたことを知った彼女から、ホームズと絶交するよう言い渡されたから、と宣言される。


ううむ、展開的に軽いぞ、なんか。でも、なんでもないと読み飛ばしてしまいそうなこの文章は、私を捉えた。ちょっ長いが引用。



「今度ばかりは私も、論理の均衡を欠いた彼の決断をはねつけることができない。なぜなら、決断が感情に基づいてなされたことは火を見るよりも明らかだったし、壁のように強固な彼の感情を羽のように軽い理性で打ち倒そうとすることなど、とっくの昔にやめていたからだ。この電撃的な婚約は孤独をかこつやもめが本能にかられてのぼせ上がった結果にすぎないと指摘することすら、不人情に思えた。」


んー、なんてことないんだけどね、「羽のように軽い理性」というのがいいですね。この物語のタッチはホームズとワトスンの間の友情と、世紀の変わり目、そして老いを意外に細やかに表現しているから説得力のあるセリフではあった。



劇場にコンスタンスを訪ねた折、ホームズは殺人の嫌疑をかけられてしまう。逃げ出して必殺、ここで出たかという女装(笑)をしてコンスタンスの衣装係になり、本名のルーシーを名乗るホームズ。姓はとっさにアドラー^_^とする。


内偵に成功したホームズが自分の嫌疑を晴らしつつ、真犯人をグレグスンに捕まえさせるわけですが、もう見えちゃってる気が・・。


意外に繊細な文調、クライマックス、マクベスのセリフの効果的な導入、ヴァイオリンのけんなどそれなりに演出があってまとまってはいる。エキセントリックな設定だったがテンポもあり、好意的に読み進んだ。サントリーミステリー大賞1992年の特別佳作賞だそうだ。ちなみに大賞は花木深という方の「B29の行方」前年の佳作賞に横山秀夫で面白かった「ルパンの消息」が入っている。


ただ、モリアーティの娘が出てきたというのにやることがどうも小物くさかったのがマイナスポイント。


感情の表し方も、押し殺しすぎてなんか不自然になっちゃってるような。かつては「三人ガリデブ」で「お前にとって本当によかったな。もしワトソンを殺していたら、生きてこの部屋からは出られなかった。」とまで悪漢に息巻いたホームズなのに。女性的な振る舞いを意識しているのかもしれない。


ただ文調には確かに見るべきものはあったと思う。今年も基本月イチはシャーロッキアンもので行こう。


岩崎達也「日本テレビの1秒戦略」


徹底的な分析とその結果に沿ったクリエイト。TVの世界の戦いを垣間見る。


先日「フジテレビはなぜ凋落したのか」を読んだがその時の感覚を思い出すと多少分かりやすかった。


80年代、TVのトップはフジテレビであった。「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチフレーズに人気番組を多く作った。自分の身に照らしてみれば、当時「おれたちひょうきん族」を大学の友人はよく観ていた。あるやつが「『カノッサの屈辱』ってすごくおもしろかよJunちゃん!」と力説していて観てみたらサザン朝ペルシアとかユーミン西太后とか音楽業界の浮沈を知的にしゃれのめして紹介してて、新しいコンセプトの番組だなあと好意的に受け止めたのを覚えている。2~3回しか観なかったが。


日テレは打倒フジテレビ、視聴率でトップを取ることを目標に数々の改革をしていった。やはり、自局とフジテレビの番組を1人48時間隅から隅まで徹底的に観て比較し、何が違うのかを炙り出していったのがすごいと思う。番組だけでなく、担当者はCMやテロップの出し方の違いまで分析した。


ちょっと心に響いたのは、


「このプロジェクトの最大の意義は、プロジェクトメンバーのそれぞれが。1分1秒単位の分析を実際に手作業で行ったことだろう。」

「自分の目と耳で体感したことによってライバルのフジテレビの斬新さ、すごさを実感することになった。」そしてメンバーたちは当然の帰結として危機感を抱いた、というところ。メンバーたちはこの分析をもとに改革案を練り上げていく。


私もいろいろな担務をやり、分析・研究もしたことがあるが、やはり実務作業を行った感覚は強いと思う。結果として報告は挙げるが、そのためにはさまざまな要素を知り勘案するプロセスを経るから。仕事の根を掘り起こし理解する実地作業は得るものもまた大きい、と思っている。


日テレ幹部はこの改革を全面的に支持して日テレの躍進は始まった。


番組名はたくさん出てくるが、思い出に残っているのは「進め!電波少年」「進ぬ!電波少年」かな。その時も新しくて思い切った番組が出て来たという感覚があって、特に後の方、坂本ちゃんの東大挑戦なんかは毎週必ず観たものだった。


日テレが上昇していった時期は、テレビ局がブランディングを開始した時期に重なる。笑ったのは、「日テレ」という呼称に統一しようとした時に意外に拒否反応が出て「蔑称のように聞こえる」と言った内部の人もいたんだとか。


この日テレ躍進の話も、ひとつの時代を象徴しているように見える。今や分析・研究も進んでいるだろうし、多メディア化と言われて久しい。バブルまでがフジテレビ、バブル崩壊後が日テレ、の時代というおおまかな色分けもできる。


川端康成は戦後の欧米の価値観を咀嚼し自国のものとして描く作品を待望していたようだ。テレビにも新時代の、新しくて強い戦略が出てくるんだろう。また将来、驚くような、でも理に適った新戦略をこのような本で目に出来るかな、と思った。


余談の余談だが、大学では同じ苗字がいたからJunちゃんと呼ばれ、高校は呼び捨て、中学以前はまた別の呼び名があった。で、社会人ではShino。


大学でJunちゃんと呼ばれるたんびに「ガキデカ」の、こまわり君の同級生、髪の長いジュンちゃんを思い出してたなあと回想。うーむ古い(笑)。


皆川博子「蝶」


日本の、文学のひとつの流れか、と考えてしまった。


書評サイトの絶賛の雰囲気を覚えていて、借りてきた。表紙がまた美しく妖しい。ただ、内容は予想もつかなかった。私が読んだ皆川博子は1800年代のヨーロッパ設定のミステリー「開かせていただき光栄です」のみ。コミカルな風味もあったから、第1編を読んだときは、このテイストか、とちょっと驚いた。


詩をキーポイントに置き、1930年代から戦後まもなくまでの期間という設定で、美しく妖しく怖い、少しグロな要素まで含んだ情景が繰り広げられる。短い話が8つ。異世界を一つずつのぞいているような気分になる。


この感じで思い出すのは、桜木紫乃「氷平線」、乾ルカ「あの日に帰りたい」「夏光」はたまた北村薫・宮部みゆき編「名短編ここにあり」また、高橋克彦の直木賞作品「緋(あか)い記憶」などなどだ。人のナマを感じさせるような、幻想的な、エロもグロも狂気も深くなりすぎず入ったテイスト。


記憶に残ったのはシェイクスピアが出てくる「想ひだすなよ」、続く「妙に清らの」か。


「想ひだすなよ」は小学生の主人公、隣に住む祥子、一軒おいて隣の宮子、おっとりして美人の冬美は仲良しだったが、やがて主人公は祥子の家の離れに住むエダという女性、祥子の従姉だというーの部屋でシェイクスピアを読み込むようになる。やがてエダは、祥子の父の愛人だったということが知れるー。


というストーリー。小学生ながら、いや、小学生だからか、仲良し4人組でも好き嫌いがあり階級づけがされている。ラストはちょっとだけグロな展開。この短編集は眼球がかなり意識されていると思う。


「妙に清らの」は幼い私がいつも眼帯をしている叔父と看護婦、叔父と新婚の奥さんの秘密を垣間見るのだが、それがまたちょいグロで美しくて倒錯しててまあ、という感じだった。


詩も知らないものばかり、格調もあり、また上海の話、通商事件なども出てきて時代を感じさせる。綺麗な、幻想的な、というものなのだろうか。的確に言い表す言葉を思いつかないが、これも、現代の、好きな人の多い、日本の文学的な流れか、と思った。


1月書評の2

霧雨だったり雪だったり。1年でいちばん寒い季節❄️。だがもう三寒四温のターンに入り始めたのか、週ごとに寒波と緩みが。アジアカップは負けて良かったと思う。

森保ジャパンはぜんぜんまだまだ。立ち上げてまだ半年だけど、ここまでいい結果が出たことで悪いところが指摘されていない状態。

黙ってたけどさ、サウジアラビア戦、ベトナム戦のウノゼロ(1-0)は運の結果。相手は危険なシーンを作り出していた。守備はまだまだ。ポイントは守備力のあるボランチだと見る。

守備は序盤強めで感心したイランにも攻撃には失望した。アズムンにつなぐだけ、かい!これでよく6年間アジアで無敗だったもんだ。

日本の攻撃もまだまだ。中央突破にこだわりすぎかも。スピードある連動は魅力的だけど、そこまで行ってない感じがある。もっと形あるバリエーションが欲しい。攻め手は多くないと。ほんで、得点力、実はなくない?南野決勝以外は外しすぎだし。

結果がいいとたたかれない。危機感も育たない。だから今回はこれでいい。メディアはもっと今回の結果を叩かなければならない。まあ成長過程の試練だから、でお茶を濁さないようにしないと。アジア最強と言われたイランに勝って、メディアもファンもかなり気が緩んだようだ。その結果だからカッコ悪いと思う。

平松洋子「焼き餃子と名画座」

タイトル買い。ちょっと源氏物語の合間になにか読みたくなったんで。

昨年教えてもらって気になってた一冊。そりゃま、名画と焼き餃子、好きなものが並んだら読まないわけにはいかないでしょう。サイコーの取り合わせですね。タイトル買い。

「私の東京 街歩き」という副題の通り、西荻窪、代々木上原、六本木、赤坂、四ツ谷、神保町、青山、吉祥寺、銀座などなど各所10ページ以内でお店と味のルポエッセイ。

こういう類なら昔から量産されてるような気もするが、平松洋子氏の描き方は、どうしようもなく美味そうで、やられてしまった。

全ては紹介できないが、まずは友人が住んでてよく行く代々木上原。主役はドーナツの店だが、バー、フランス料理、居酒屋、おやつ屋、野菜料理、四川料理からブータン料理屋までたくさん店名が挙げられていて巡ってみたくなった。

次いでこりゃいけない、というのが2つ。一つは神保町カレー。私はこの本で紹介されている「ボンディ」の欧風カレーが大好きで、東京から大阪へ転勤になっても出張の折に食べに行っていた。他のカレー屋さんのルポもたくさんあり、うわー食べたいな、たまらんな、となった。

で、今一つは六本木の海南チキンライス。あの茹でたチキンに数種類のソースをつけながら食べる幸せったらない。六本木でやはり私は食べていた。ちょっとあかんところに火がつきそうでかないません。関西で食べられる店を探そう。

読んでるうちにとても食べたくなってしまう。都電荒川線の文豪めぐりも魅力的。

下北沢の野菜を美味しく味わう店「七草」も三田「華都菜館」の酸菜火鍋も、荻窪「川勢」のうなぎ串焼きも心惹かれる。うんちくを語りすぎない、由来もサラッと、そしてさりげなく美味しそうに。著者がなにより楽しそうに。平松洋子氏はその道のプロで単純な私はころっとハマってしまった。まじめな話、表現の勉強にもなった気がする。日本語のボキャブラリーは渋いし、例えも上手である。

「焼き餃子と名画座」の名画座は神保町の小さな映画館。著者が観た映画は「小原庄助さん」。観終わった後、映画館の向かいの「天鴻餃子房」で焼き餃子と生ビール。かなわんなあ。

今度神戸で、名画座はないけど単館系映画を観た後に中華街の餃子を食べよう。

紫式部作
與謝野晶子訳「全訳源氏物語」四

右衛門督、紫の上、そして六条院の光源氏は消えゆく。時は移り右衛門督と女三の宮の子・薫中将と帝の子・匂宮の時代へ。宇治十帖に突入。

この巻は、ストーリーは大波小波があるが、だからなのか表現としては平板だ、と感じた。長かったなー。

光源氏に対する罪の意識に苦しんだ右衛門督・柏木は息をひきとる。光源氏は今回のことで衝動的に出家した自分の妻、女三の宮と柏木との間の子、薫を見てもの思う。

一方夕霧は残された柏木の未亡人・女二の宮に魅かれ、やがて強引に結婚してしまう。長年の妻、雲居の雁は出て行ってしまう。

柏木も女三の宮も罪に苦しむ。光源氏のもとにはまたまたまた、六条御息所の物の怪が現れ、光源氏は今回の不祥事はコイツの仕業かも、と思う。

夕霧もこれまでと違って大変に強引。最初は友人の家へ追悼として出入りし、ついには未亡人を我がものとする。まじめな人だからこそ夢中になったら突っ走る、というふうに周囲が見るのがちょっと面白い。また、この後も出てくるが、周りの女房達が宮の将来(と自分たちの生活)が安泰となるように姫の意に沿わなくともぜひともお受け入れなさいな、という態度になっていくのは、物語チックであり、リアルな香りも漂わせる。

光源氏が夕霧と女二の宮のことを耳にして、自分の青春時代に好色な評判を取った不面目を批難のしようもなく堅実だった息子・夕霧がつぐなってくれるものと思ってたのを裏切られたような寂しさを感じた、というくだりがある。あまりに利己的な考え方で笑えてしまった。この楽天家さ。光源氏は並ぶものなきイケメンスーパーヒーローだが、どうも私は、紫式部がコミカルな、どこかマンガ的な面を潜ませているように思えてならない。

さらに、紫の上も亡くなる。光源氏が庭の撫子の花を見て悲しむ、という描写があった。撫子は紫色の花弁である。

そしてそして、「雲隠れ」。光源氏薨去は文章が無い。うーんこのトシまで知らなかった。描かない事で得られる究極の美、かも知れない。

時代は移り、頭中将の大臣も、玉鬘を妻にした右大将の大臣も亡くなった世ー。

光君のようなすぐれた美貌を継ぐ者として、薫と、帝の三の宮の評判が高かった。やがて両者とも出世し源中将、三の宮も元服し兵部卿の宮となる。身体からいい香りがする薫に対抗して、三の宮は着物に薫香を焚きしめ、世間では匂う兵部卿、薫る中将と評判だった。

整理しておかないと分からなくなる。薫は良いとして、兵部卿=匂宮の父は冷泉帝の次の今上帝、母は明石中宮である。今上帝の父親は朱雀帝で光源氏のお兄さん。光源氏の家の色が濃く、一方薫の父右衛門督は頭中将がお父さん。世間的には薫の父は光源氏。この交錯もなんか興味深い。

それぞれの身辺の紹介もしつつ、玉鬘が2人の娘の嫁がせ先で悩んだりするエピソードを交えつつ、「橋姫」からいよいよ宇治十帖。

桐壺帝の第八王子、八の宮。光源氏の異母弟であり、有力な親王でありながら、もはや懐かしい弘徽殿の女御が、光源氏が後見をした東宮の対抗馬に立てたため、光源氏の栄華の時代には無視されていた。で、宇治の山荘に引っ込んで暮らしている。妻を亡くし、2人の成長した娘がある。

薫は八の宮が仏道に造詣が深いのを知り教えを乞うため宇治に出かけていく。勤めている年老いた女房が昔女三の宮の近くにいた人で、残っていた手紙から、薫は自分の出生の秘密を知る。

薫は宇治でなかなか姿を見ることの出来ない娘たちに憧れる一方、京の兵部卿の宮に宇治の娘たちのことを語って聞かせ、やがて宮は宇治へ直接手紙を書くようになる。

八の宮が突然亡くなり、頼りを失った娘たちは嘆く。薫は姉の女王・総角の姫君へ猛アタック。しかしこの姉妹は美しいがあまりに男性に拒絶感が強かった。姉の女王は、妹・中の君にだけは将来の道をつけたいと兵部卿の宮を寝所に入れ、結婚させる。しかし帝や中宮にこの恋を咎められた兵部卿の宮が京で高貴な姫と結婚すると聞き、絶望のあまり姉は寝込み、薫が見守る中死んでしまう、というところまで。

光源氏が栄華を極めるが、後半は下り坂、というのが、通読したことのない私の認識だったが、ここまでではもうひとつ分からないかな。前の巻くらいから少しずつ見えていたが主役級がいなくなり、次へ繋げて、ズバッと時代が移る巻。

前の巻までは、冗長になってきたら刺激的な事件が起きたり、強い印象を残す映像的、色彩的な場面を演出したりしていたが、私的にはこの巻は喪の墨染の色のイメージが強く、そういった彩りを与えるような技法の印象が弱い。

大長編、その分物語の動きとしてはスケールの大きい巻ではある。さて、いよいよ最終巻。

紫式部作
與謝野晶子訳「全訳源氏物語」五

宇治川の流れに呑み込まれたような感覚。最後に来て、夢中にさせられた。

宇治から二条院に移り住んだ中の君に薫は猛烈なプッシュ。中の君は拒絶するが従者の着物など細かい心遣いをする薫に冷たすぎる態度も取れない。中の君は突然、父の八の宮には落とし胤の姫があって、消息を知らせてきたという話をする。亡くなった姉の総角の姫君にそっくりだという。薫は強く興味を惹かれたが、自分のアタックを逃れたいがための方便かもと思う。

やがて中の君は兵部卿の宮の子を妊娠・出産。薫は望まれて帝の二の宮と結婚する。宇治の山荘を改築するため訪れていた薫はたまたま立ち寄っていた前常陸守のお嬢様、中の君の言っていた八の宮の庶子・浮舟と出会う。常陸守の妻・中将の君の頼みで浮舟を預かった中の君だったが、兵部卿の宮はその姿を目にして心を奪われる。

宮の接近を危ぶんだ中将の君は、小さな家に娘・浮舟を隠す。薫はそれを知り、訪ねて行った翌朝に姫を抱いて車で宇治まで連れて行くのだった。

それからはもう丁々発止。兵部卿の宮に浮き舟の行方が知れ、宮は薫のふりを寝室に忍び込み結ばれる。浮舟もまた宮に恋してしまい、2人の男の間で心揺れる。

浮舟を京へ迎える準備を進める薫は、兵部卿の宮の動きに気づき、荘園の荒侍を使って、おしのびで宇治へ来た宮の一行を山荘へ近づけない。思い悩んだ末、浮舟は行方不明にー。

宇治では浮舟が宇治川に身を投げたと思い、早々に葬儀も済ましてしまう。薫、兵部卿の宮ともに大きな悲しみにくれる。ところが浮舟は生きていた。旅の尼の一行に拾われ、比叡山の麓、坂本にともに住むことになり、思い余って出家する。そうこうするうちに薫が知ることとなり、行って浮舟の弟に話させるが、浮舟は突き放すー。

ここからまた大きな動きも創れそうに思える。しかし物語は大きな余韻を残して終わる。

源氏物語の後半は紫式部ではない人物が書いたという説が濃厚のようで、あとがきで與謝野晶子もそう書いている。

話の流れは恋い焦がれた人に似た女性、が突然現れ、薫と匂宮が激しく争う。姫は2人の美貌の男性を想い、心乱れる。

そして亡くなったと思わせておいて生きていた、というかなり突っ走った劇画のようなものとなっている。源氏物語のラストに来て
大きなうねり。最初はやや浅薄かな、と思った。

しかし、宇治川の大きく重い流れをボトムに敷き、堅実で賢い薫と放縦でボンボン的な宮の違いも巧妙に浮き立たせ、次々と変わる場面を見るうちにいつしか軽い興奮を覚えながら読み進んでいた。

拾った尼君が、失った自分の娘に模しているところ、その元婿が浮舟に恋し、尼君も2人が結婚して手元に残ってくれればいいのにと思う、浮舟にとってカウンター的なベース作りも上手い。

また兵部卿の宮が宇治へ行き、姫を抱いて舟に乗り対岸に渡る場面などは
表現も際立っていてとても美しい。一~三巻のような機知の効いた色彩ではなく、
透き通った神々しさのようなものが漂う場面を正面から描いている。宇治十帖が美しいと言われる所以の一つだと思う。

帝が催した藤花の宴で右大臣の夕霧が和琴、匂宮は琵琶、そして薫が父の柏木が無くなる前に夕霧に託した笛を奏する場面、
浮舟をかくしたのは元僧の物の怪で、総角の姫に憑いて殺したのも自分、と言う場面などはまた源氏物語の全体の色を継いでいる。
大詰めのラストも上手に切っていると思った。

これで全巻読了したわけだが、「あさきゆめみし」を読んだのもだいぶ以前で、最終巻でも、続きがありそうな文章にもかかわらず浮舟が生きていたのにハッとしたし、認識することが多かった。

セリフも長く、原文は難解そうだな、と何度となく與謝野晶子の苦戦を思った。
1000年前の作品なのに、大きな流れ、雰囲気、そしてストーリー上の技巧、色彩的、映像的な演出のテクニック
さらに宇治十帖のように宇治川の流れを全体に浸透させた作りなど、心から感心した。

さらに美少年、美青年的な設定を始めとしたきめ細やかな演出的要素、そして多くの女性の恋愛的、当時の社会的な心の動き、といった女性視点の活かし方も素晴らしい。男性が書いたという説もあるそうだが、読んだ限りではとても賛成できない。

女性と源氏物語で話が弾むのも発見だった。

さすが、さすが、という感じ。日本史上最高の物語は心に迫るものがあった。




西宮

1月書評の1

ちょっとブログアップがおろそかになっている。ちゅーのがひと月に15〜20冊も読んで書評書いてたら日々時間がないのだ。まあ、このように、月イチの書評アップのときに近況も書けばいいかと思い始めた頃に事件が。


紫式部作
與謝野晶子訳「全訳源氏物語」一

大人の読み物だわ、と。

年の初めに、日本史上最高の物語に入門。読むきっかけは川端康成が、ノーベル賞受賞記念講演ほかをまとめた著作「美しい日本の私」の中で源氏物語が日本史上最高の小説で、以後これを超えるものは一つも出てきていない、という意味のことを述べていたことによる。

さて、内容。たくさんの方が通読されているので間違いもあるかも知れませんが・・

「桐壺」のいとやんごとなききはにはあらぬが、の訳出部分が懐かしい。帝と桐壺の更衣の間に生まれた子は美しく成長し、臣籍降下して源氏の姓を賜った。光源氏である。確か源融(みなもとのとおる)がモデルだったと思う。諸説あるみたいです。

「帚木」では頭中将、左馬頭らと行う女性の品定めに触れる。よく聞く場面。ふむふむ。

光源氏のキャラクターが、予想外に強引だった。かたくなな人妻の空蝉に押す押す。間に入って光源氏と空蝉の両方に責められる美少年小君がかわいそう。

夕顔では互いの正体を明かさず恋する。ところが、もっと2人で過ごそうとあまり立派でない家に移ったところ目を離したわずかの間に夕顔は亡くなってしまう。光はその前に恨み顔をした女を夢に見ていた。

この話は伊勢物語の最初の方、駆け落ちしようと姫を連れ出した男が、辿り着いた家の外を警戒しようと出ていったすきに恋人を鬼に喰われてしまったという話に基づいているのかとも思った。

「若紫」は、もうほぼ強奪。周りがあれほどまでに嫌がり、本人もわけわかんないのに10歳くらいの女の子をさらっていくというのは誘拐じゃん、と思ったりする。これは前世の因縁だ、と強弁するところはこの時代らしい、のかな?

で、末摘花では母の桐壺に似ているという藤壺が光源氏の子を妊娠してしまう。おいおい。帝に寵愛を受けている女性であり、そりゃDNA鑑定なんてないけど、非常にまずい。会う機会は減り、母の面影を追えなくなってまた光源氏には鬱屈したものが溜まる。まあ母の面影は若紫にも見ているわけだけど。

老女と言っていい典侍を頭中将とともに愛して同部屋に居て脱がせ合いの大騒ぎをするのも一興。少女マンガで出てきそうな楽しげな場面。

「葵」では光の正妻・葵の上が妊娠して、なれそめの描かれていない六条御息所の恨みによって葵は死んでしまう。葵の上は光源氏とは仲が悪かったが、この懐妊を機に少し心が通ったと見えた場面でのドラスティックな展開である。物語らしい。六条御息所はなれそめが描かれてないので登場が唐突だが、夕顔にも憑いて殺しているようだ。本人の意識外のところで物怪、怨霊となるようである。

若紫の髪を切ってやるシーンは映像的に美しい。髪そぎの祝い言葉である「千尋」という短い言葉が、場面に良く似合う。不思議な感覚だ。

藤壺にも光源氏は押す押す。病気で倒れてるっちゅうねん、という時も気を許せばベッドインという状況。また夫の院が亡くなって、一気に藤壺の立場は弱くなり、息子の東宮の後見人である光源氏をむげには出来なくて苦労する藤壺。ついに藤壺は出家して尼に。

第一巻は11帖で終了。冠位とか女性の呼び方、また装束、和歌のことなど訳とはいえつまずくところも多かった。多くの女性を愛する中で、上手に語り繋いでいる印象だ。紫式部も帝に近い存在だったのにこんなに帝がらみの不倫の話なんか書いてだいじょぶだったんだろか、なんて思ってしまう。

與謝野晶子は少女時代に原文で読み、何度も通読するうちに意味もつかめてきたんだとか。にしてもこれは、男女のことだからというだけではなく、大人な作品だな、と思ったりする。

光源氏は優しい、と聞いたことがあるが、この巻でもあまり麗しくない女性や年老いた方などにはたしかに優しく接している。けれどもまあ、帝の子という立場にもの言わせて強引に突っ走る若者、というイメージが先行しているかな、今のところ。

総括的なものはまだ先で、とりあえず印象でした。面白い。

紫式部作
與謝野晶子訳「全訳源氏物語」二

やり過ぎた光源氏は官職剥奪、須磨、明石へー。

一巻の最後の方、帝の愛人で右大臣の娘・朧月夜との同衾を父・右大臣に見つかった光源氏。かつて桐壺の更衣の寵愛ぶりを妬んでいた弘徽殿の皇太后にも注進が及び皇太后は激怒。光源氏は官位を剥奪されてしまう。失脚である。で、自ら須磨へと居を移す。

一巻で光源氏強引で調子に乗り過ぎ、と思わせたのはここに繋がってるのかと波のつけ方にちょっと感心。

光源氏が京で紫の上と別れる時に詠んだ歌。

生ける世の別れを知らで契りつつ
命を人に限りけるかな

現代の距離を考えれば京都と須磨は電車で1時間半くらい。悲しみすぎという気もするが、この歌は心に残った。若い頃はそりゃ、人生に関わる別れなんて考えずに付き合うもんな、と。

須磨で先帝の幽霊を見た光源氏は明石に移り、明石入道の娘と結婚、子を設ける。その頃都では現帝、皇太后ともに病気になっていた。宮中の人材不足もあり、帝は2年半ぶりに光源氏を赦免、呼び戻すことを決定する。

運命の変転に幽霊のお告げが絡んでくるのはシェイクスピアのようだ。しかも先王とはハムレットみたい。

京に帰ってからの光源氏はまさに我が家の春。大臣職にもつき、昔恋した女性たちをケアする。文章上も月日の流れを意識した表現が目立ち始める。現帝、朱雀帝は院へ退き、若い東宮が冷泉帝となる。冷泉帝は両親が前々帝桐壺帝と藤壺ということになっているが、ホントは光源氏と藤壺の間の子で光源氏そっくりだという。

「絵合」では光源氏が親代わりの、六条御息所の娘、元斎宮が冷泉帝に輿入れし梅壺の女御と呼ばれる。すでに新弘徽殿の女御という、権中納言、以前の義兄弟にして親友の頭中将の娘が輿入れしていた。冷泉帝は絵が好きだということで、梅壺側と新弘徽殿側、つまり光源氏と頭中将側に分かれ、収集した絵の披露&ディベート合戦のような催しが行われる。

ムキになる頭中将がコミカルでもあるが、ここは月日が経ちあの若い頃の親友が政敵になってしまったという描写らしい。後には内大臣となり悪役っぽく振る舞うし。また、このような派手な場面を挿入するのはまた作家の手腕かと感じた。

さらには呼称がそれぞれ変わったり紛らわしかったりするので、ちょっと混乱した。調べてみて間違えてなかったとホッとしたこともあった。源氏物語あるある、なのかな。あらすじを追うと字数ばかり増えるが、分かったことを書いてみたい気もする(笑)。

やがて藤壺は亡くなる。前後して冷泉帝が実は光源氏と藤壺の子というのが発覚、帝本人も知ることになる。

一方葵の上との子である若君には低い官職から始めさせたりと厳しくあたる光源氏。若君は内大臣、頭中将の娘で従姉の雲居の雁と互いに恋愛感情を抱くが引き離されてしまって不満を募らせる。

かわいいな。伊勢物語の筒井筒を思い出す。

二条の院に住んでいた光源氏は六条に絢爛豪華な新邸を建築、これまで恋愛した女性たちを住まわせる。明石の君も呼び寄せ、九州のしつこい求婚者から脱出してきた夕顔の娘の玉鬘をも保護することとなる。

紫夫人と光源氏が、女達の性質に合わせて送る着物の色や柄を選ぶところはまた映像的、色彩的。こういう場面を作って変化をつけるのは一巻同様紫式部の特徴だね。

美しい元斎院に言い寄るが相手にされず、グチっぽくなった光源氏。玉鬘には求婚者が殺到する。親の立場で保護したはずの玉鬘に夕顔の面影を見て、ついに恋心を打ち明け添い寝してしまう光源氏。玉鬘は光源氏という後ろ盾がなければ立ちいかない。ここまで読むとむしろらしい、とも思えるが、相変わらずなんてやつ、光源氏、という感想で次巻に続く。

明石の君が娘と出京することになり、別れに明石入道が詠んだ歌。

行くさきをはるかに祈る別れ路に
たへぬは老いの涙なりけり

自分にもいつか来るんだろうなあと身にしむ想いを抱いた。

それにしても読むのに時間がかかるわー。

紫式部作
與謝野晶子訳「全訳源氏物語」三

色々はあるが冗長かなあ、と思っていたら最後の方に事件が・・ひさびさに物の怪登場。長くなってしまうな。

「野分」では
台風明けの日、中将夕霧は父光源氏の夫人紫の上を目にしてその美しさに魅入られる。自分が父帝の夫人藤壺と関係して子までなしてしまったため、光源氏は夕霧と紫の上を合わせないようにしていたんですね。また玉鬘と光源氏がベタベタと抱き合ってるのを見たり久し振りに明石の姫君を見て、美しく成長している姿にときめいたり。
恋しい雲居の雁にも想いが及んで動揺する帖。

台風の見回りで中将が六条屋敷をめぐるのを自然に演出しているし、荒れた天候と台風がもたらした被害の光景などにざわざわした夕霧の心を暗示的に同調させているのが見事だな、と思う。

さて、この巻の前半は玉鬘が中心。光源氏はついに内大臣に、玉鬘が娘であることを告げ、引き合わせる。求婚者はあいも変わらずたくさん。光源氏は玉鬘に帝に仕える尚侍(ないしのかみ)になるよう強く勧めて決まるが、執心だった右大将が玉鬘の寝を襲い同衾してしまう。右大将と結婚することになりまた憂鬱になる玉鬘。やがて子も生まれる。帝も玉鬘をお気に召していたから、いずれ後宮に入って帝の愛人の一人として過ごすか、将来の明るい身分の高いものの妻として暮らすか厳しい選択で、光源氏も内大臣もなにがしかの思いはありつつも仕方がないと認める。

運命に翻弄される玉鬘の成り行き。うーむ。物の怪のために母夕顔が死に、姫として苦労して、父親のこと、自身の美貌のために悩み、望まぬ結婚と、玉鬘はここまではずっと憂の人。しかし子どもを育てているうちにいまの幸福を光源氏に感謝することになるのだが。

「藤のうら葉」では
娘の雲居の雁の幸せに思い悩む内大臣が折れる形で宴に夕霧を呼び寄せ、結婚させる。いやー心を揺らせながらも親と違ってマジメな夕霧、よかったねー。久しぶりに再会した時の、夕霧の言葉。

「みじめな失恋者で終わらなければならなかった私がこうして許しを受けてあなたの良人(おっと)になり得たのは、あなたに対する熱誠がしからしめたのですよ。」

はにかんで、ちょっと恩着せがましいセリフでもあるが、なにより「熱誠」に惹かれた。哀しい初恋が成就した瞬間、クライマックスの場面に相応しい言葉。原文を調べると

「世の例にもなりぬばかりつる身を、心もてこそ、かうまでも思し許さるめれ。」

だった。世間の話の種となってしまいそうな身の上を、その誠実さをもって、このようにお許しになったのでしょう、というふうな意味らしい。そこまで離れているわけではないが、「熱誠」ほかの表現は與謝野晶子一流のものか。いいねー。

この帖のラストは冷泉帝の、光源氏が住む六条院への行幸。帝、源中納言(夕霧)、光源氏、父親と2人の息子が顔を合わせる。血縁のつながった麗しい男子3人が揃い、栄華が極まる。明らかに意図されたシーンでなかなかやるな、と思う。似た顔ばかりである。

さて、大きな帖「若菜 上下」。

光源氏の兄の朱雀院は病気で気弱になり娘の女三の宮の行く末を気にかけていた。そして、光源氏にぜひ妻としてもらってくれないか、と持ちかけ、光源氏は承諾する。

さらに時は経って出家した朱雀院の法皇の50歳のお祝いをしようとした折、女三の宮の琴はさぞかし上手いんだろうと噂が立ち、実際はそれほどでもなかったから光源氏は特訓をする。そして紫夫人や明石の君、女三の宮ら女たちばかりの合奏練習の場を設ける。右大将となっていた光源氏の息子の夕霧はその場に立ち会い、紫夫人や女三の宮の美しさに物思う。

ちょっと楽屋話のにおいもするが、紫式部おなじみのこれもまたきらびやかな場である。正直若菜の帖はやや冗長だったから、このタイミングを計っているところが紫式部の非凡なところだな。

なんて思ってたら紫の上が倒れて、なんと久しぶりの六条御息所の物の怪が出現。月日を経てしつこい。びっくりした。紫の上は一時死亡するが息を吹き返す。そんな折、女三の宮は熱烈に恋い焦がれた衛門督に寝間を襲われ妊娠してしまう。しかも衛門督の手紙を光源氏が見つけて、2人の関係が知れてしまった。

光源氏には恨みの気持ちも湧くが、考えているうちに俺も人のことは言えんな、となる。まあ、光源氏が無理やり一線を超えたという描写はないが、まあ、そりゃそうだよあんた、と普通に思えてしまった(笑)。

衛門督は罪の意識から身体を悪くし、危篤が来てもおかしくない状態になってしまう。

もう「若菜」では光源氏は40代も後半。月日が経つのを感じさせるが、自分が官職を剥奪された原因の尚侍へ再び熱烈にアプローチ、結ばれてしまうのだから、この男だけは・・とあきれるやら感心するやら。

栄華を極めた光源氏はどうなっていくのか。楽しみだ。





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